聖書を開こう 2017年2月16日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 支配ではなく、愛のゆえに(2コリント1:23-2:4)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 パウロの有名な言葉の中に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」という言葉があります。コリントの信徒への手紙一の13章にある「愛の賛歌」とよばれる個所に記された言葉です。

 貧しい人のために全財産を使い果たすという行為は一つであったとしても、その行動に至る動機は様々あります。純粋に貧しい人たちを愛する気持ちからそうする人もいれば、自分が有名になるためにそうする人もいます。その場合、内面の動機はどうあれ、外から見た行為は変わりありません。しかし、パウロは愛が伴わない行いのむなしさを指摘します。愛こそが、その人の行いの真の価値を決めるというのは、今でもその通りであると思います。

 パウロがコリントの教会のために手紙を書いたり、あるいは、直接訪問したり、場合によっては、訪問を先に延ばしたりという場合にも、外面的な行動は様々でも、一本貫くものは、この教会に対する愛であったといっても言い過ぎではありません。しかし、残念なことに、このパウロの思いは、なかなかコリントの教会の人々には伝わらなかったようです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 1章23節〜2章4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 パウロはこの手紙を書くにあたって、自分自身を弁明する必要がありました。というのも、前回もお話しした通り、パウロはコリントの教会を訪問する計画を第一の手紙の中で明らかにしていましたが(1コリント16:5)、実際には、その通りに計画は実行されませんでした。少なくとも、一度は計画とは違うスケジュールでコリントを訪問したかと思えば、その後の訪問のスケジュールがどうやら延期されたままでのようです。訪問を受け入れる側のコリントの教会から見れば、パウロの気まぐれとしか思えないかもしれません。もちろん、両者の間に信頼関係が成り立っていれば、何の誤解も生じなかったことでしょう。

 実は、コリントの教会にはパウロの心を痛めるような、大きな問題がありました。その問題を解決するために、パウロには訪問を早めたり、遅らせたり、する必要があったのでした。一刻も早く問題を解決したいという思いから、予定を早めてコリントの教会を訪問したことは、教会を愛するパウロの気持ちから言えば、ごく自然な行動でした。ところが、そのパウロの気持ちとは裏腹に、突然の訪問は、問題の解決どころか、パウロが予想もしなかった悪い方向へと教会を向かわせてしまったようです。

 そこで、パウロはここで、訪問を遅らせている理由を明らかにしています。それは、「あなたがたへの思いやりから」だとパウロは弁明しています。こう書いてしまうと、「思いやり」の押し付けのように聞こえてしまうかもしれません。もちろん、パウロは高圧的な態度で、そういっているのではありません。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが」というパウロの言葉は、文字通りパウロの真実な気持ちを保証する言葉です。

 パウロはすかさず言葉を変えて、「あなたがたの信仰を支配するつもりはない」と畳みかけます。

 人間が使う「あなたのためを思って」という言葉は、しばしば、本当に相手のためを思っているのではなく、単に相手を自分の思う通りにしたいと願う支配欲から出てくる場合があります。パウロは、人間のそうした欺瞞を誰よりもよく知っている人でした。そうであればこそ、自分の誠意が、支配欲の表れと誤解されないように、コリントの教会の人たちを支配する思いなど、少しもないことをはっきりと述べています。

 そのことは、何よりも、相手を一人の信仰者として尊重していることからも明らかです。パウロは、「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」と述べて、相手への敬意を表しています。相手を見下すことから、相手への支配がはじまり、支配関係だけが相手とのつながりであるとするならば、そこにはもはや思いやりなど存在しなくなってしまいます。

 では、パウロの行動の原理である、相手への愛、相手への思いやりとは、具体的にはどういう点にあったのでしょうか。パウロは続けてこう述べます。

 「むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」

 「喜び」という言葉をあえて使っているのには、理由があります。というのは、前回の訪問の時には、不本意にもコリントの教会の人々を悲しませる結果となってしまったからです。もちろん、悲しい思いをしたのは、パウロ自身もそうでした。しかし、今はあえて自分の悲しみには触れないで、相手の喜びについて、自分が協力する立場であることを明らかにしています。パウロの思いやりとは、何よりも、相手が喜びを回復することです。そのために最大の協力を惜しまないというのがパウロの真実な気持ちです。

 しかし、ここまでパウロが真実な思いを打ち明けるのには、わけがありました。先を読み進めていくと、不調に終わった前回の訪問と、今、この手紙をしたためているこの時点との間に、もう一通の手紙をパウロが送っていたことが明らかになります。もちろん、コリントの教会の人たちは、すでにその手紙を手にして読んでいることが前提になっています。

 その手紙とは、「悩みと愁いに満ちた心で」、「涙ながらに」書いた手紙でした。それは「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」とパウロ自身が書いているとおりのものでした。しかし、再びコリント教会の人々が、悲しむことになるかもしれない、という恐れはパウロの胸から払しょくすることはできませんでした。そうであればこそ、自分の思いが正しく伝わるようにと、言葉を尽くして、パウロは自分の気持ちを言い表しています。

 相手への真実な思いやり、愛だけが本当に問題を解決する糸口であることをパウロは心から信じていたからです。

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