聖書を開こう 2018年1月11日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  新しい時代・喜びの時代の到来(マルコ2:18-22)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初代のキリスト教会は、自分たちを新しい時代に生きる共同体として意識していました。それはもちろん彼らの実感から来た意識であると同時に、そのような時代感覚はイエス・キリストご自身に由来しています。

 きょうこれから取り上げる箇所で、キリストはご自分を新しい時代に属するもの、古い時代にはそぐわないものとして描いておられます。また、別の個所では、ご自分を新しい契約の仲介者として示しておられます(1コリ11:25。ヘブル12:24参照)。

 「新しい」という言葉をキーワードとして新約聖書を読み直してみると、そこここに「新しさ」に対する感覚が満ち溢れています。もちろん、旧約聖書にも「新しい」という意識がないわけではありません。しかし、それはしばしば将来の希望と結びついた新しさです(イザヤ42:9, エレミヤ31:31)。それに対して、新約聖書では、キリストとともに新しい時代が今まさに到来している喜びに満ち溢れています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 2章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 きょうの個所は、断食を巡る人々の疑問から始まります。洗礼者ヨハネの弟子とファリサイ派の人々には断食の習慣がありました。しかし、イエスの弟子たちは断食をしなかったようです。そのことをいぶかしく思った人々がイエスに疑問を投げかけます。

 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

 そもそも、旧約聖書の中で記される断食というのは、その時々に、必要に応じてなされるものでした。神の啓示を受けるためにモーセはシナイ山で40日40夜断食したとあります。また、旧約聖書に登場する人物は、しばしば罪を嘆き悲しみ、悔い改めるために断食を行いました。定期的に日を定めて行われる断食というものに関しては、ただ年に一度、贖罪の日に行われる苦行が、断食であったといわれています(レビ16:29)。

 ただ、敬虔なユダヤ人たちは週のうちの日を定めて断食を行うという習慣がありました。ルカ福音書に出てくる「ファリサイ人と罪人の祈りの譬え」では、週に二度断食することが敬虔なユダヤ人の証であるかのように描かれています(ルカ18:12)。この週に二度の断食という習慣は、普通は月曜日と木曜日に行われるものでした。

 ヨハネの弟子とファリサイ派の人々がイエスの弟子の行動を問題にしたのは、この週に二度の断食の習慣を、イエスの弟子たちが守っていなかったからでしょう。

 もっとも、イエス・キリストご自身が、断食に反対していたのかというと決してそうではありませんでした。マタイによる福音書6章16節以下には、まことの断食についての教えをキリストが語っておられます。イエス・キリストは形骸化した断食には反対されましたが、断食そのものを否定したりはしませんでした。何よりもイエス・キリストご自身が洗礼を受けられてから荒野で断食をしたことが聖書には記されています。

 ただ、きょうの話は、敬虔なユダヤ人の定めた断食の日を、弟子たちが守っていなかったというところにきっかけがあることは明らかです。

 きょう取り上げた出来事が、先週学んだ徴税人レビの家でイエス・キリストが食事を共にしたときのことを言っているのだとすれば、キリストの行動はとても興味をそそられます。イエス・キリストは断食そのものを否定されませんでしたが、断食を行うか行わないかという日取りに関しては、とても自由なお方であったことがわかります。

 実は、きょうの聖書の個所はただ単に断食を巡る論争なのではありません。イエスは人々の質問をきっかけに、新しい時代がやってきたことを大胆にお語りになっています。

 なぜ、イエスの弟子たちが定められた日に断食をしないのかという疑問に答えて、イエス・キリストは三つの譬えを引き合いに出しています。一つは婚礼の譬え、もう一つは古い服と新しい継ぎ当ての譬え、そして三つ目は新しいぶどう酒と古い革袋の譬えです。この三つの譬えが共通に指し示しているものは、今の「時」がそれまでの「時」とは明白に異なっているということです。特にあとの二つの譬えでは、新しさと古さとがはっきりと対比されています。

 結婚式のお祝いの席で、悲しそうな顔つきで、出された料理にも手をつけないとすれば、それはまったくの常識はずれであることは言うまでもありません。婚礼の宴では普通、喜び楽しみ、祝うのが当たり前です。

 ところで、「婚礼のとき」というのは、救いの時がやってきたことを示すために、譬えとしてしばしばもちいられる表現です。ここで、イエス・キリストが唐突にも婚礼のことを持ち出されたのは、まさに救いのときがやってきているということを示すためでした。そのような時代を敏感に意識して、どう行動するのか、そのことが問われています。

 直前に描かれる徴税人レビをはじめとする救いを必要とする人々がイエスの周りに大勢集まってきている場面を見て、その事実が指し示している事柄に目を閉ざしていてはいけません。救いを必要とする人々が救い主の周りに集まってきたことを、もっと喜ぶべきだったのです。イエスの周りに集まる人々の喜びにあふれた表情を見落として、ただ、きょうが定められた断食の日であるということにしか目が赴かないとは、なんと悲しいことでしょうか。

 イエス・キリストは婚礼の譬えから発展させて、さらに二つの譬えを通して、キリストと共に新しい救いの時代が、今まさにはじまっていることをお語りになります。この新しい時代を古い時代の秩序の中に押し込めることはできません。古着の破れを新しい布切れで繕うことはできないのと同じです。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることができないのと同じです。

 しかし、イエス・キリストが単なる伝統の破壊者としてやってきたと誤解してはなりません。イエス・キリストは新しい時代を招き寄せるために古いものを壊せといっているのではありません。すでにイエスと共にやってきている新しい救いの時代にいち早く気が付き、その新しい時代の中に生きることが求められているのです。イエス・キリストはわたしたちを新しい救いの時代へと招いてくださるお方です。

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