聖書を開こう 2018年3月29日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  風や湖さえ従わせるお方(マルコ4:35-41)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「生きた心地がしない」とか「寿命が縮む思い」という表現があります。そんな経験はめったにしないものですし、一生しないに越したことはありません。自分自身の経験を振り返ってみても、それほどに怖い思いをした経験はありません。あえて言えば、東日本大震災の時、このまま大きな揺れが続けば、自分もビルも、もろとも崩れ去ってしまうかもしれない、という思いが一瞬脳裏をかすめました。

 きょう取り上げようとしている個所にも、生きた心地ではない弟子たちの様子が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 4章35節〜41節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 今日取り上げた個所の場面設定は、4章の1節からつながっています。今までイエス・キリストがお話しになった神の国の一連のたとえ話は、小舟の上から岸辺にいる群衆に語りかけたものでした。夕方になって「向こう岸に渡ろう」とお命じになるキリストに応えて、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出します。それが今日の場面です。

 弟子たちのうち、少なくともペテロもアンデレも、ヤコブもヨハネも漁師でしたから、長年の経験と勘で、今この状況で舟を出すのは安全か危険か、当然予測はついたはずです。舟を出したということは、言い換えれば、この先、身に降りかかろうとしている災難は、漁師たちにも予想外の出来事であったということです。

 「突風」とある通り、突然湖面に吹きおろしてくる風は、予測することができません。しかも、この時の突風は「激しい」という形容詞が付けられるほど、程度の大きな風でした。たちまち舟は波をかぶって、水浸しになるほどです。舟といっても、大きな船ではありませんから、波風に翻弄されたあげく、水が舟に大量に入りこめば、たちまち沈んでしまうかもしれません。

 イエス・キリストは、というと、この騒ぎの中でも眠っておられます。事態に慌てふためいている弟子たちの様子とは対照的です。

 さすがにたまりかねた弟子たちは、キリストを起こしてこう言います。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

 起こし方にもいろいろあると思いますが、弟子たちが言った言葉は、「先生、大変です。起きてください」でもなければ、「先生、助けてください」でもありませんでした。

 遠回しにキリストののん気さを非難するかのように「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、こう呼びかけたのです。

 同じ舟に乗っているのですから、身に及んでいる危険は誰に対しても同じはずです。弟子たちが言う「わたしたち」の中にはキリストも含まれていたのでしょうか。それとも、弟子たちはイエス・キリストだけが奇跡的な方法でこの難から逃れるとでも思っていたのでしょうか。もしそうだとすれば、あまりにも失礼なものの言い方です。しかし、逆に言えば、それほどに弟子たちはこの事態に動転していたという証でもあります。

 もちろん、弟子たちのこの叫びの真意は、「助けてください」の一言に尽きるでしょう。ただ、その思いをどんな言葉で伝えるのかは、その人の日ごろの思いや信仰が少なからず反映されているようにも思います。

 わたしは、ここで決して弟子たちのことを批判しようとは思いません。先ほど、東日本大震災の時のことに触れましたが、あの時とっさに思ったことは、「主よ、助けてください」でもなければ「主よ、大変です」でもありませんでした。激しい揺れの中で脳裏をかすめた思いは「自分の人生もこういう仕方で終わりになるのかな」ということでした。弟子たちの思いと五十歩百歩かもしれません。危機的な状況の中で信仰深く立ち振る舞うというのは、口で言うほど簡単なことではありません。そういう意味で、弟子たちと同じ舟に乗った思いです。

 この時、起き上がったイエス・キリストが最初におっしゃった言葉は、慌てふためく弟子たちへの非難ではありませんでした。弟子たちが心の中で期待していた通り、弟子たちに対する最大の関心を波風を鎮める言葉でお示しになりました。

 「黙れ。静まれ」という一言で、風はやみ、凪になりました。

 イエス・キリストは、弟子たちがおぼれてもかまわないなどど、無関心なお方では決してありません。今まで多くの群衆の悩みや苦しみに心をかけてきたように、ここでも、弟子たちの危機的な状況に最大の関心を示してくださるお方です。

 そして、この奇跡が示していることは、単に弟子たちに対するイエス・キリストの深い関心と憐みというばかりにとどまりません。確かに、今まで弟子たちの前で行ってきたキリストの奇跡の業と、今弟子たちの前で示したキリストの御業とは、明らかに質の異なるものでした。そうであればこそ、弟子たちの感嘆の言葉が印象的です。

 「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」

 悪霊や病はおろか、自然界さえもその支配下に置かれるお方であるキリストの姿を目の当たりにするのは、弟子たちにとって初めての経験でした。ありとあらゆるものが、このお方のコントロールの下にあるのです。これほど、力強いことはありません。

 この弟子たちの驚嘆した思いに先立って、イエス・キリストは弟子たちに、こう問いかけておられます。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 イエス・キリストを「主」と信じることは、このお方があらゆるものの主であることを信じることです。そして、このお方を自分の主と仰ぎ、自分がこのお方のものであると信じるとき、生きるにも死ぬにも、深い慰めと励ましとをいただくことができるのです。

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