聖書を開こう 2018年8月2日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  悟らない心(マルコ8:14-21)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 小さなものが全体に大きな影響を与えるというのは、いい意味でも、悪い意味でも、実例に事欠きません。またそうしたことを譬えたことわざや言い回しは、国によって色々なものがいろいろあります。例えば、「山椒は小粒でもピリリと辛い」と言うのは、山椒のような小さな粒でも、侮りがたい力を持っていることの譬えに使われます。あるいは「腐ったリンゴ」「腐ったみかん」と言えば、たかが一つであっても、放置しておけば、箱全体に腐敗が及んでしまいます。

 聖書には「パン種」が、そういう小さいながらも大きな影響を与えるものの譬えとしてしばしば出てきます。イエス・キリストが神の国の譬えに用いるときを除けば、パン種は大抵悪い意味で用いられています。きょうの個所にもパン種についての警告が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章14節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には1つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」弟子たちは、「12です」と言った。「7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」「7つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 先週学んだ個所では、信じて心を変えるつもりもないのに、しるしばかりを要求する不信仰な人間の罪の姿が描かれました。きょうの個所は、そのような場所を去って、湖の向こう岸へとわたる舟の中での出来事が描かれます。

 イエス・キリストは移動する舟の中で、弟子たちに警告を与えます。

 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」

 この言葉を聞いた弟子たちは、何をどう勘違いしたのか、イエス・キリストの言葉を、パンを持ってくるのを忘れた自分たちへの当てこすりと理解してしまいました。それで、たちまち弟子たちの間で醜い議論が起こります。そのような弟子たちの心理状況がどんなものであるのか、想像を働かせて、思い描くことはできます。また、その場の弟子たちの論じ合う声も身近に聞こえてきそうです。

 しかし、彼らが何をどう論じていたのかということよりも、イエス・キリストが弟子たちの心の頑なさを嘆かれた、という点に目を留めたいと思います。

 前回学んだ通り、ファリサイ派の人々が心を頑なにして、信じる心を忘れ去っていたのは、マルコ福音書の今までの流れから考えて、当然予想できる事柄でした。嘆かわしいこととはいえ、そうもあるだろうとクールに捉えることもできます。けれども、キリストと寝食を共にしていた弟子たちまでもが、なお、心を鈍くしていると言うのは、とてもショックなことです。

 しかし、見方を変えれば、ナザレのイエスを神から遣わされたメシアと信じていないファリサイ派の人々も、イエス・キリストの御側近くにいて、キリストを間近に見ている弟子たちも、中身はそれ程変わらない罪人に過ぎないのかもしれません。

 それはクリスチャンとこの世の人との間が、実際には五十歩百歩でしかないと言う現実を謙虚に考えてみれば、当然なことです。逆にそうであればこそ、イエス・キリストがおっしゃる「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言う言葉が、現実味をもって迫ってくるのではないでしょうか。クリスチャンの心がそもそも完璧だとしたら、キリストの警告の言葉そのものが意味を失ってしまいます。危なっかしいからこそ、イエス・キリストは警告されていらっしゃるのです。

 パン種というのは、小さなものでありながら、パン全体を発酵させて膨らませる力があります。もちろん、パンなら膨らんだ方がいいわけですから、パン種は歓迎すべきものです。しかし、それが良くないことの影響だとしたら、少しも残しておくわけにはいきません。なぜなら、ほんのちょっとでも全体に影響を及ぼしてしまうからです。そういう意味で、イエスはファリサイ派の影響とヘロデの影響を懸念していたのです。実際、すでに3章6節で見てきたように、ファリサイ派とヘロデ派は手に手を取ってイエスを殺そうと企んでいた人々です。そのような不信仰で頑なな態度が弟子たちに入り込んではなりません。

 けれども、残念なことに、イエス・キリストのなさった奇跡から、彼らさえも十分に学び取ってはいませんでした。それは、目の前のものにこだわりすぎていたからでしょう。弟子たちは現実のパンのことにあまりにも心を奪われすぎていたために、「パン種」という言葉を聞いて、現実のパンのことしか思い浮かびませんでした。確かに弟子たちは奇跡を見てはいましたが、奇跡の背後にあるものには目がいっていなかったのでしょう。パンを見ていてもパンの背後にある力に心を閉ざしていたのです。

 奇跡を求める信仰というのは、しばしばこういう弱さがあるものです。例えば、どれだけ大変な病気から解放されたかということ、あるいは、どれだけ貧しい中から救われたか、ということだけが一人歩きして、その背後で働いて下さっている神の力がどこか視野の外に行ってしまうということです。覚えられるのは、病気の重さや貧しさの程度だけで、神様ご自身の姿が薄れてしまう危険です。

 結局のところ、弟子たちは目があっても見えない、耳があっても聞こえない、心が頑なな状態でした。それは、お世辞にもファリサイ派やヘロデよりも少しはましだと言えるほどのものではなかったのです。

 しかし、そうであればこそ、この心の内にある腐敗を放置してはいけません。

 やがて、ファリサイ派もヘロデにくみする人々も、イエス・キリストを殺してしまおうとする動きに出ます。もちろん、今更私たちがもう一度キリストを十字架にかけて殺すことはできません。しかし、イエス・キリストというお方、神から遣わされた救い主を、心の中から抹殺してしまう危険は、現代を生きるの私たちにもあり得ることです。

 マルコによる福音書を通して、イエス・キリストのうちに神からの救いを見出すことができるように、神に心を開いていただきましょう。

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