聖書を開こう 2018年11月15日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の国に入るには(マルコ10:17-27)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どうしたら救われるのかという問い、これはどんな宗教にとっても根本的な問いだと思います。しかし、いったいどんな救いを期待しているのかということ、これも重要な問題です。そして、どんな救いを期待しているのかということは、その人の人間理解や人生観と深く関わっています。

 今日取り上げる個所にはこの二つの問いが扱われているように思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章17節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 きょうの個所は、ある一人の男の質問から始まります、この男に関しては、マタイによる福音書には「青年」と記され、ルカによる福音書には「議員」であったと記されています。そして、三つの福音書に共通して、彼は金持ちだったと記されます。若くして地位も名誉も富も手に入れた、人もうらやむエリートです。立派な家柄に育ったのか、幼いことからのしつけもよかったのでしょう。神の戒めもそらんじるほどにそれを心に留め、そればかりか神の戒めを実践してきた人です。

 そして、この人の優れている点は、きわめてまじめであると言うことです。この福音書の中に記されている人々の中で、イエス・キリストに対して何かについて尋ねてくる者たちの多くは、不純な動機を持つ者たちです。キリストの揚げ足を取ろうとしたり、試そうとしたり、イエス・キリストを訴え出る口実を見つけるためであったり、そんな動機からキリストに近づく者が後を絶ちませんでした。

 けれども、この男の場合は、そういう不純な動機からイエス・キリストのもとへやってきたわけではありません。

 非常にまじめな気持ちで「永遠の命」のことを考えていたのです。

 この「永遠の命」とは、イエスご自身が言い換えておられるように、「神の国に入る」というのとほとんど同じことを意味します。つまり、この男が求めていたものは、この地上で命が尽き果てようとも、なお、神の御前で生きつづけるような、そういう命が問題だったのです。神のご支配のもとでいつまでも生きつづけるような、そういう命に関心があったのです。

 そういう意味では、この男の求めはとてもまじめなものでした。富や名誉や地位がすべてとは思ってもいなかったのです。

 けれども、イエス・キリストはこの男に欠けている一つのことを示されます。

 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 はたして、イエス・キリストはここで何を問おうとされているのでしょうか。財産を放棄することでしょうか。もしそうだとすれば、それはある意味では簡単かもしれません。家も畑も財産も全部捨てるだけなら、思い切ってそうすればよいだけのことです。しかし、キリストがお求めになっているのは、「わたしに従う」と言うことです。ただ単に何もかも捨てることに意味があるのではなく、キリストに従うことに意味があるのです。

 イエス・キリストはこの男に「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言いました。しかし、これと同じくらい大切な戒めについて、この男に気がつかせようとなさっておられます。それは心から神を愛し、神に従うことです。

 この男に欠けていたのは財産を捨てることができなかったと言うことではなく、神を心から愛して従うことができなかったということです。

 とても逆説的ですが、この男が、本当に自分の姿がそういうものであることを知っていたとするなら、なおのこといっそう、永遠の命を得るために何をすべきか、真剣に求めたことでしょう。

 しかし、この男にとって神の国に入ることは、当然に与えられる権利のようなものに思えていたのでしょう。今は神の国に入る資格がないとしても、当然自分の手によって得られるものという前提でものを考えていたのです。

 しかし、実際には神を愛することも、神に従うことも、その力のない自分の姿があきらかにされてしまったのです。

 しかし、本当の福音はここから始まります。イエス・キリストはおっしゃいました。

 「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」

 これを聞いた弟子たちが驚いたように、この言葉は神の国に入るのは不可能だと言っているのに等しい言葉です。しかし、イエス・キリストはおっしゃいました。

 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」

 これがイエス・キリストの答えなのです。結局のところ、神に心から従い得ない人間には何もできません。できないからこそ、神にすべてを明け渡すことが求められているのです。

 神は何もできない人間のために救い主イエス・キリストをおつかわしくださいました。これが福音です。

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