聖書を開こう 2018年11月22日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストに従う者たちへの報い(マルコ10:28-34)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 遠藤周作の代表作の一つに『沈黙』という小説があります。17世紀に日本で起こったキリシタン弾圧と棄教を扱った歴史小説で、遠藤周作が生涯取り組むテーマとなる「同伴者イエス」や「弱い者の神」といった考えに貫かれています。これまでに二度も映画化されるほど、有名な作品です。

 この小説をわたしが初めて読んだのは、高校生の時で、まだ教会に通い始めて間もない頃でした。その時は拷問の激しさにばかり目が行き、自分は生涯、信仰を貫くことができるかと心配な気持ちになりました。今から思うと、随分取り越し苦労でした。まだまだ救いについての理解が浅く、自分の力次第で何とかなるような、そんな理解が自分の中で見え隠れしてました。

 キリストの最初の弟子たちも、ほんとうにキリストがもたらす救いについて理解するまでには、時間が掛かったようです。あるときには、必要以上に恐れを抱き、あるときには自分の力に過信し、キリストの十字架の意味が見えなくなった時もありました。

 きょうの個所もイエスに従って救いに与るとはどういうことなのか、考えさせられる個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章28節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は3日の後に復活する。」

 きょうの個所でまず最初に発言するのは、弟子のペトロです。ここでペトロが口火を切っているのは、「わたしたちは」といっているように、弟子たちを代表した発言です。「ペトロ一人が」なのではなく、イエスに従ってきた12人を代表しての発言です。

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」

 ペトロがこんなことを言い出したのは、言うまでもなく、直前に描かれた出来事がきっかけでした。ある金持ちの男が、まじめな信仰心にもかかわらず、悲しい顔をしてイエスのもとを去っていってしまったからです。それは、この男には持ち物を売り払ってでもイエスに従うことができなかったからです。

 この様子を見ていたイエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。

 そして、このイエスの言葉を聞いて誰よりも驚いたのは弟子たちでした。もし、それほどに難しいのなら、誰が救われようかと思うのは無理もありません。

 しかし、弟子たちには望みがなかったわけではありません。なぜなら、自分たちは曲がりなりにも、何もかも捨ててイエスに従ってきているからです。このペトロの発言には救いに対する多少なりともの自信が顔をのぞかせているのかもしれません。あるいは逆に、あの金持ちほど財産のなかった弟子たちが捨てたものは、取るに足りないものだったという批判を恐れたかもしれません。

 ただ、イエスはこの弟子たちの発言がどういう思いから出たものであるにせよ、まずは、キリストに従うことの厳しさを告げその報いを約束されます。

 「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」

 キリストに従う者には二重の意味での困難さが告げられます。まず一つは神の国を家や家族や財産と同列におかない困難さです。神の国を求めることは何にも優先させさせなければなりません。神の国はいくつかあるオプションの一つでは決してありません。キリストご自身がマタイによる福音書の中で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃっておられる通りです(マタイ6:33)。

 第二の困難さは、そうしてあらゆるものを犠牲としても、この世では迫害の危機から逃れることはできないという厳しさです。苦労した割には、その苦労が報われないと感じることがあったとしても、それを特別なことと怪しんではなりません。周りの人々からの無理解な扱いを覚悟しなければなりません。

 しかし、イエス・キリストはそれにもまして三重の意味での報いも約束してくださいます。その一つは、迫害はどんなに長くてもこの世限りのことということです。来るべき新しい世界では、この苦しみからは完全に解放されます。

 第二の点は、この世での報いが完全に否定されていると言うことではないということです。家や家族や財産を捨てたとしても、その百倍にも勝る報いが約束されています。このような恵みや祝福を期待することがキリストに従う者たちには許されているのです。

 そして、第三は、来るべき世界で通用する報いです。永遠の命に生きることが報いとして約束されているのです。迫害もこの世での報いも過ぎ去るものです。しかし、キリストは過ぎ去ることのない祝福を与えると約束してくださっています。

 けれども、このような報いが約束されているのには、知らなければならない大切な事柄があります。確かに何もかも捨てて、イエスに従ってきた弟子たちの決断は立派なものであったかもしれません。けれども、先週学んだように、救いの達成は人間にできることではありません。それは神にだけできることなのです。

 ここで、なぜイエス・キリストはこの直後に、エルサレムへ向かう途上で、ご自分が受ける苦難と復活について弟子たちに予告しなければならなかったのか、その意味を考えなければなりません。

 それは、神の国に迎え入れられ、永遠の命に与る希望が与えられているのは、ペトロや他の弟子たちの決断が根拠では決してないということを思い起こさせるためです。ご自分の命さえも惜しまずに捧げてくださったイエス・キリストにこそ救いの希望と根拠があるのです。

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