聖書を開こう 2019年10月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  監督者の資質(1テモテ3:1-7)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんな集まりでも、それが小さいうちは、組織化する必要もないでしょう。仕切るのが得な人がその集団を動かしていくか、その都度、みんなで話し合ってことを進めていけば、それほど大きな問題も起こりません。気心知れた仲間の集まりであれば、なおさらです。

 しかし、その集まりも大きくなってきて、必ずしも気心の知れた人たちの集団ではなくなってきたとき、ルールを定めたり、組織化される必要が生じてきます。これは教会の歴史でも、避けて通ることはできませんでした。

 初代教会が組織化されていく過程をつぶさに跡づけることは、できないかもしれませんが、例えば、使徒と呼ばれるキリストの12人の弟子たちは、イスカリオテのユダがそこから欠けたときに、弟子たちの中から1名を補充して、使徒の務めを継続させました(使徒1:15以下参照)。エルサレムの教会で食事の分配のことで問題が生じたときには、問題解決のために7名の知恵ある人たちがそのために選ばれました(使徒6:1以下)。また、教会ごとに長老たちを任命したことも、使徒言行録には描かれています(使徒14:23)。またフィリピの信徒への手紙の冒頭には、信徒たちに並んで「監督たち」や「奉仕者たち」が宛先人として挙げられています(フィリピ1:1)。これらの人たちが、今日でいう教会役員であったとは言えないかもしれませんが、少なくとも聖徒(信徒)と区別される人たちであることは間違いありません。

 ここに挙がっている人たちが、どの時期にどの程度組織化され、定着化していたのか、明確に描くことは困難だとしても、少なくとも、集団の中にある種の役割を担う人たちが選ばれるようになったことは明らかです。

 きょう取り上げる個所には「監督」の働きに就く者の資格について記されている箇所です。少なくともこの手紙が書かれる頃になると、「監督」の務めが教会の中で定着していたことがうかがわれます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 3章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」だから、監督は、非のうちどころがなく、1人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

 今読んだ個所は「監督」の職に就くのにふさわしい人の資質を列挙した個所です。どんな人が監督の職務にふさわしいのか、描かれています。もっとも、ここには「監督」が何をする人であるのか、残念ながら記されていません。ただ、そこに挙げられているいくつかの資質を見ると、漠然とその働きの内容を想像することができると思います。

 例えば、「よく教えるができる」という資質は、監督の働きが、教えることと関係があることを示唆しています。あるいは「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」とある通り、この監督の働きが、家庭を治めるように、教会を治め、世話する働きであることがわかります。

 ところで、初めのところで述べましたが、使徒言行録には、教会ごとに長老たちを任命したことが描かれていますが、この長老と監督の関係は、どうなっているのでしょうか。同じ使徒言行録の20章にはエフェソの長老たちが集められたことが記されています(使徒20:17)。その集まった長老たちに対してパウロはこう呼びかけています。

 「聖霊は、…神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(使徒20:28)

 つまり、長老も監督者も同じ働きの違った呼び方であることがここからわかります。

 さて、監督者の資質として最初に挙げられていることは「非の打ちどころがない」ということです。けれども、罪のない人は1人もいないというのが聖書の教えですから、たとえクリスチャンとして罪赦された人であったとしても、欠点のない人はいません。「非の打ちどころがない」ということを厳格に当てはめるとすれば、1人として適格者はいないでしょう。

 しかし、ここでいう「非の打ちどころがない」という意味は、それに続く一連の言葉が、その内容を具体的に示しているように思います。

 続く言葉は、「1人の妻の夫」であることが求められています。これは、必ずしも既婚者であることが監督者の要件であると取る必要はないでしょう。また、「夫」とあるので、女性には監督となる道が禁じられている、と断言することもできません。ただ、男性を候補者に想定してこの文章を書いていることは否めません。ここで重要なのは、「一人の」という部分です。もっとも一夫一婦制がほとんど常識になっている現代日本の教会を想定すると、あえてそこを強調する必要がないようにも思われます。ただ、当時の社会状況の中で、その点を強調しておくことは必要不可欠のことであったということでしょう。

 それ以下に続く五つの資質、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができる」と訳される単語は、いずれも新約聖書の中ではほどんど用例がない言葉であるので、具体的にどういうことをイメージしているのか、辞書的な意味以上に説明することは私には困難です。ただ、「客を親切にもてなす」ということに関しては、ヘブル人への手紙13章2節でも言われているように、アブラハムが主のみ使いたちとは知らずに彼らをもてなした話しが旧約聖書にはあります(創世記18:1以下)。当時は旅人をもてなすことは、現代よりももっと普通の事であったのかもしれませんが、このことが監督者の資質に求められているということを、決して時代的なこととして排除してはならないように感じます。教会にやってくる人たちを温かく親切に迎える態度は、今も監督者の大切な資質であるように思います。

 そして、一連の資質の中で最後に置かれた「よく教えることができる」という資質は、重要性の上で最も低いために最後に置かれたのではなく、むしろその反対で、監督者の資質として、この手紙が想定していることは、伝えられた教会の教えを正しく人に伝えることができる人、特に異端的な間違った教えに対して、理路整然と反駁できる人物です。そういう意味で「良く教えることができる」という要件は決して軽んじることができません。そういう意味で、「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません」という要件にも注意を払う必要があります。

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