聖書を開こう 2020年1月9日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  喜びが満ち溢れるように(1ヨハネ1:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「楽しくなければ、教会ではない」という意見に対して、「教会はサロンではないから、楽しみに来るところではない」という意見を聞いたことがあります。おそらく言葉は違っても、教会の在り方に対して同じような対立した意見は、他にもあるかもしれません。どちらの意見が正しいか、というよりは、どちらの意見にも正しさがあるように思います。

 そもそも、「楽しくなければ教会ではない」という意見が何故出てくるか、ということを考えると、そこには閉塞感を感じる教会の在り方に対する不満が見え隠れしています。「楽しい」という言葉は漠然としていますが、教会に来ても満たされない思いがそこには表現されています。教会に来ても何も満たされない、という思いがあるとすれば、それを放置してよいはずはありません。

 けれども、それがただこの世的な楽しみを求めているだけのことであれば、「教会はこの世のサロンではない」と一喝してしまうことも間違いではないでしょう。けれども、その人がどんな楽しみを求めて教会に来ているかをよく聞きもしないで、楽しみに来るところではない、などと言ってしまうのはどうかと思います。それでは、まるで教会は楽しくないところだと言っているようにも聞こえてしまいます。そう答える人は、教会に来て楽しいと思ったことがないのでしょうか。もし、そんな思いで来ているのだとすると、それもまた問題を感じます。

 「喜び」と「楽しみ」は別物かもしれませんが、喜びがないのに楽しいと感じることはないでしょうし、逆に喜びがあるのにちっとも楽しくないということもないでしょう。

 きょうこれから取り上げる個所には、手紙の執筆の目的が「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と述べられています。喜びが満ち溢れる教会の交わりは、どのようにして得られ、またどんな結果をもたらすのでしょうか。これからヨハネの手紙一を通して学んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 1章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。…この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。…わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 きょうからヨハネの手紙一をご一緒に学んでいきたいと思います。ヨハネという名前がついている通り、ヨハネによる福音書の言葉使いや思想とよく似た個所があります。さきほどお読みした個所にも両者に共通した表現や言葉がたくさん出てきます。たとえば、「はじめからあったもの」「言」「命」「永遠の命」「喜び」「御父と御子イエスとの交わり」。これらの言葉や表現はヨハネ福音書にも頻繁に出てきました。

 ところで、この文書は「ヨハネの手紙」と呼ばれていますが、今まで何度か取り上げてきたパウロの手紙の書き方とは違っています。差出人も宛先人も、挨拶の言葉も記されていません。いきなり謎めいた言葉から始まっています。

 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」

 「はじめからあったもの」という出だしは、ヨハネによる福音書の書き出しをを思い出させる表現です。そこには、「はじめに言があった」と記されています。この手紙ではそれを受けて、これからこの手紙で伝えようとしている「命の言」のことを「はじめからあったもの」と表現してます。

 それに続けて、手紙の著者は自分たちが伝える「命の言」が、いかにリアリティに溢れるものであったかをこう表現しています。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」

 わざわざ「目で」見た、とか「手で」触れた、と述べて、自分たちの体験がいかに現実味を持ったものであるかを強調しています。イエス・キリストというお方がこの地上に来られたことは、決して空想上の出来事でもなければ、ただ、霊的な世界や天上の世界で起こった絵空事でもありません。

 表現は違いますが、ヨハネによる福音書も、命の言であるイエス・キリストがこの地上にやってこられたことのリアリティを、次のように語っています。

 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:16-18)

 この手紙の中では、目で見ることに加えて、「手で触れる」ことも加えています、それは自分たちの身近で起こった現実を的確に表現する言葉です。それは、この現実を否定しようとする人たちへの強い反対の意思を伝える表現でもあります。

 この手紙を読み進めていくうちに、何故、この手紙の著者がこのような表現を使っているのか、その理由が明らかになります。というのは、キリストが肉体をもってこの世に来られたことを否定する人たちが起こってきていたからです。

 はじめからあった命の言葉、永遠の命について伝える目的について、ヨハネは二つ上げています。

 一つは父なる神と御子イエスキリストとの交わりに、この手紙の読者たちにもあずからせようというものです。そして、もう一つの目的は、喜びが満ちあふれるようになるためです。

 喜びが満ち溢れるのは、言うまでもなく、父なる神と御子イエスキリストとの交わりにあずかることと切り離して考えることはできません。それを抜きにしてキリスト教的な喜びについて語ることはできません。

 もし、教会に来て喜びを感じないとすれば、礼拝で解き明かされる聖書の御言葉が、この交わりに人々を招き入れているかどうか、あるいは、その招きに応えようとしているか、その点を考えてみる必要があります。しかもそれは、空虚なリアリティのない交わりではありません。

 それは手紙を読み進めていくうちに出てきますが、神の愛に生きることと深くかかわっています。イエス・キリストによって示された神の愛を受け止め、その愛の中に生かされているかどうか、そこに行きつくのです。

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