キリストへの時間 2022年5月1日(日)放送

大宮季三(芸陽教会牧師)

大宮季三(芸陽教会牧師)

メッセージ: しくじりを指摘する書物

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。5月のキリストへの時間を担当する、高知県芸陽教会の大宮季三です。
 先日、お笑い芸人であるオードリーの若林さんのエッセイ(「ナナメの夕暮れ」若林正恭著)を読みました。この方は、「しくじり先生」という番組にレギュラー出演していた方です。この番組は、ゲストの有名人が先生となり、自分の人生の「しくじり」を話し、教訓を語るバラエティ番組です。若林さんは、この番組にレギュラー出演し、あらゆる「しくじり先生」からの授業を受けた結論として、こういうことを語っています。「自分では自分のしくじりの種に気付けない」、「しくじりを回避するには、耳が痛いことを言ってくれる信頼できる人を持つこと」。私は、この文章を読んでいて、聖書のある言葉と繋がるなぁと思いました。

 神の独り子であられるイエス・キリストは、「人を裁いてはいけない!」と教えられたのですが、そこでこんな例えをおっしゃっています。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか。」(マタイ7:3)。他人の小さな小さな問題にはすぐに目がいくのに、自分の大きな問題を認識することができない。他人には厳しく、自分には甘い。これが、人間の姿です。自分のしくじり、自分の欠点、自分の悪いところには、なかなか気がつきません。だからこそ、人間は、自らの姿勢を正すための外からの声が必要です。

 神の言葉である聖書は、まさに私たちの「しくじり」を指摘する書物です。聖書には、たくさんの戒めが記されており、読む一人一人に、「あなたたちはしくじっていますよー!」と語りかけます。聖書は、人間のあらゆるしくじりを「罪」として指摘します。「父と母を敬いなさい」、「盗んではならない」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、と聖書は教えます。

 「それぐらいなら大体できている!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ですが、イエス・キリストは、非常に身近な罪の問題を指摘されました。「『人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」が、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高裁判所に引き渡され」る。自分はばかとは言わずにアホと言うから大丈夫だ!」、なんていうことは、もちろん通用しません。

 イエス・キリストはこう続けられます。「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21-22)。身近な兄弟喧嘩も、「神様の前には罪だ!」と、はっきり示されました。更に、「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:28)とおっしゃいました。実際に行為に及んでいなくても、心の中での思いもまた、「神様の前には罪だ!」とはっきり示されました。聖書の声に耳を傾けると、「自分は本当にしくじり先生だなぁ」と思わされます。実際に、初期キリスト教会の大伝道者であるパウロは「自分は罪人のかしらだ」と言っています。

 これを聞いている方は、「聖書はなんて厳しいんだ!」と思われるかもしれません。ですが、神の独り子イエス・キリストは、罪を指摘することを最終目的として、この世に来られたわけではありません。罪を指摘した上で、「私は罪から救うために来た!」とおっしゃいます。「あなたはしくじっています!」と言い残して去って行かれたわけではありません。「そのあなたの罪のために私は命を捨てる」とおっしゃり、実際その通り、十字架にかかられました。

 罪の指摘に対して、「それは厳しいから無理!」「みんなしてる!」と、開き直るのか、それとも、そのために捧げられた、神の独り子イエス・キリストの命を受け取るのか。その二つの人生は、まったく違います。教会は、聖書を通して、皆さんの「しくじり」を示します。時には、傷をえぐられるような痛みを伴います。ですが、そのしくじりを見つめれば見つめるほど、神の愛の大きさが示されます。この偉大な神の愛の大きさを、教会は今日も宣べ伝えています。



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