聖書を開こう 2022年8月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  子としての鍛錬を軽んじないように(ヘブライ12:4-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読んでいると、誤解を生むような表現に出くわすことがあります。例えば、きょう取り上げようとしている個所に、「それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」という言葉が出てきます。口語訳聖書や新改訳聖書に慣れ親しんできた人は、この個所は「私生子」という言葉が使われていたのを覚えているでしょう。「庶子」も「私生子」も今はあまり使わない言葉ですが、どちらも婚姻関係のない男女間に生まれた子供を指す言葉です。戦前の民法の法律用語としては、この二つの言葉には厳密な区別がありました。婚姻外の子供のうち、父親の認知があった場合に「庶子」と呼んで区別しました。

 ここで使われているギリシア語の「ノトス」という言葉には、そのような認知による区別はありません。嫡出でない子供をさす一般的な言葉です。訳語を変えるというのは、あらぬ誤解を生む危険があります。もちろん、「私生子」という訳語に変えて「庶子」という訳語を採用したのは、「私生子」という言葉の持つイメージの悪さを少しでも軽減するためであったのでしょう。あえて、「庶子」と「私生子」を区別するために訳語を変更したとは思えません。

 この個所が誤解を生む可能性があるのは、訳語の問題ばかりではありません。内容的にも読む人によっては、気分を害するかもしれません。というのは、この個所は、当時の一般的風習を前提としているからです。当時は、実の子には厳しい訓練をし、婚姻外の子供に関しては期待もされない分、父の訓練もそれほど熱心に行われなかったようです。それは、どの時代のどの国でも共通しているかもしれません。

 しかし、聖書は当時の風習を前提として、それをたとえに使っているのであって、父親のその態度を正しいこととして是認しているわけではありません。当たり前のことですが、生まれてきたすべての子供にとって、その両親が結婚関係にあるかないかは、選べないことです。本人の選べないことで差別的な扱いを受けることが当然のような言い方は、誤解を招きます。こういう個所を読むときには、細心の注意を払う必要があります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章4節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

 きょうの個所は、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という、厳しくまた恐ろしい言葉で始まっています。手紙の読み手にとっては、血を流すほどの抵抗をまだ経験していないとしても、信仰者として受ける苦しみは十分に味わってきたはずです。彼らが経験したそんな苦しみはまだまだ序の口だと言われれば、将来を案じて気がめいってしまうかもしれません。

 しかし、そういう事態を思いがけない出来事のように理解してしまわないように、この手紙の著者はまさにこの手紙を書いているということができます。

 すでに学んだ11章も、振り返ってみれば、読者に信仰的な鍛錬への備えをさせるためのものであったということができます。そこに挙げられた信仰の先輩たちは、苦しい道を通って来た人たちでした。信仰者として誰もが通る道であり、誰もが神に支えられてこの道を歩んできた人たちでした。

 ですから、これから先、経験するどんな苦しみも、想定外の出来事と思って怪しむ必要はありません。場合によっては血を流すような苦しい戦いも起こります。

 信仰者として、迫害など苦しみに出くわすときに、その事態をどう考えて、それを受け止めるべきなのでしょうか。

 この手紙の著者は、聖書を引用しながら、神と私たちの関係が父と子の関係であることを思い起こさせています。事実、聖書はイエス・キリストを通して私たち信じる者が神の子として受け入れられていることをあちこちで語っています(ヨハネ1:12、ローマ8:15-16他)。

 神の子とされているということは、子供として父親の保護のもとに置かれるという側面があることは言うまでもありません。その保護の強さは、死さえも神の愛から私たちを引き離すことができないほどものです(ローマ8:39)。

 しかし、この手紙の著者は、父と子の関係が持つ別の側面にも目を注いでいます。それは父親の訓練とそれを受ける子供の従順と忍耐という関係です。最近の世の中では、躾と虐待を取り違えている親が増えているために、この個所も読み方によっては誤解を招きかねません。聖書が前提としているのは、先にも述べた通り、父なる神の絶対的な保護が前提です。何があっても守ってくださる神でなければ、その訓練も意味がありません。信頼の置けるお方であるからこそ、それを訓練として受けることができるのです。この個所はいうまでもなく、保護責任を放棄した者たちがおこなう虐待を訓練と呼ぶようなことを正当化しません。またそのような虐待を甘んじて受けよとも語りません。

 きょうの個所を通してこの手紙の著者が私たちに教えていることは、単純に二つの事柄に要約することができます。

 第一に、キリストを信じる私たちは神の子として神に受け入れられているという動かしがたい事実があるということです。いうまでもありませんが、この手紙の著者は、この手紙を読んでいる者たちの中に、神の子でない者がいるかもしれないという前提でこの手紙を書いているわけではありません。また、信仰者として受ける苦しみが、真の信仰者とそうでない者を区別する試金石であると語っているわけでもありません。そうではなく、キリストを信じる者が神の子であることは、言うまでもない大前提でこの手紙が書かれているということです。

 第二に、しかし、神に受け入れられている子であるなら、なぜ信仰のゆえに苦しみを受けるのか、それをどう捉えたらよいのか、そのことを教えています。著者はそれを人間の父親と実の子との関係になぞらえて説明しています。人間の父親が自分の財産を受け継ぐべき子供に必要な訓練を施すように、神もまた信じる者たちをご自分の子として訓練してくださっているということです。従って、信仰のゆえに自分の身に起こる苦しみの意味を、否定的に考えてはなりません。むしろ、肯定的に捉えて父なる神の訓練に留まって歩むことを勧めています。

 この世に妥協して、この世の色に染まって生きれば、何の摩擦も葛藤もないことは分かりきったことです。しかし、そうできないのは、まさに神の子として受け入れられているからにほかなりません。その確信こそが、私たちが受ける苦しみに耐える力となるのです。

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