キリストへの時間 2024年11月24日(日)放送

唐見敏徳(忠海教会牧師)

唐見敏徳(忠海教会牧師)

メッセージ: 真の強さ

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、おはようございます。忠海教会牧師、唐見です。
 早いもので、2024年も残すところ1か月と少しになりました。

 小さなことですが、今年、私の日々のルーチンに変化がありました。それは、女子バスケットボール・リーグWNBAの試合結果をチェックするようになったことです。きっかけは、NCWAの最多得点記録を持つスター選手・ケイトリン・クラークが、インディアナ・フィーバーに加入したことでした。NBAレジェンドのステフ・カリーと比較されるほどの3ポイント・シュート、チームメイトを生かすパスワークなど、確かに彼女の試合を見るのは楽しい。それが、今も続いています。

 「ケイトリン・クラーク効果」と称されるほどインパクトを与えている彼女ですが、多くのファン、メディアから注目される状況は、よいことばかりではないようです。よいパフォーマンスを見せているときは、まるで神のように賞賛されます。しかし、状況がかわると、殺害予告を含むほど辛辣な言葉を浴びせられます。そうであってはならないのですが、世間の注目を集めるということは、支持者が一瞬にして反対者に変わるリスクを背負うことでもあります。

 直接面識のない人に対して、しかも、その人が自分の期待に応えてくれないという理由で、罵詈雑言をまき散らす。普通に考えれば、明らかにおかしいことです。しかし、ネットやSNSには、この種の現象があふれています。匿名性の高いネットやSNSでは、面と向かってはいえないことでも、指先ひとつで発信できます。

 自分の思いや考えを絶対に正しいものとして、受け取る側の気持ちを考慮することなく、執拗に送り続けることも簡単にできてしまいます。それで、多くの場合、テクノロジーの発展によって生じた現代社会の問題として説明されます。しかし、テクノロジーの進歩によってより見えやすくなっただけで、問題の本質は、いつの時代にも存在する普遍的な事柄ではないでしょうか。

 聖書の中に、当然ネットもスマホも存在しない時代ですが、本質的に同じ出来事があったことが記されています。それは、およそ2000年前のエルサレム、過越の祭のときに起きました。イエス・キリストがろばに乗って現れます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:9)

 大勢の群衆は、イエスを彼らが理想とする偉大な王、ダビデになぞらえつつ、歓声をあげて迎えます。しかし、それから数日後、彼らは態度を180度変えて、「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫んで、イエスを攻撃したのです。

 英雄から犯罪者へ。この急激な手のひら返しの理由は何だったのでしょうか。それは、イエスが彼らの期待していたような存在ではなかったからです。彼らが求めていたのは、軍事的、政治的、経済的な意味で強いリーダーでした。当時はローマ帝国の時代でしたから、ローマ軍を倒すことができる強力なリーダーです。

 しかし、彼らが求めていたものとイエスが提示していたものには、決定的な違いがありました。他者への攻撃性と自己愛は関係があると言われますが、自らの期待に沿わないイエスを受け入れることのできない群衆は、罪のないイエスを殺すことを望むのです。

 イエスがそのとき提示していたものは、そして、今もなお提示し続けているものは、強力な軍事力や経済力で周囲を支配することではありません。また、自らの思い通りに動く者だけを受け入れ、気に入らなければ排除するような強権独裁でもありません。その対極にある真実の和解、それぞれの違いを尊重し、それぞれの弱さを受け止め、共に生きる世界でした。

 イエス・キリストの十字架の姿は、みすぼらしく、弱々しく映るかもしれません。実際、その場に居合わせた群衆やローマ兵たちは、イエスを眺めて嘲笑い、侮辱しました。しかし、あえて十字架の道を選ばれたイエスの姿には、他者を攻撃することによって得られる不毛な自己満足とは異なる、人間が本当に必要としているもの、そして、求めるべきものが示されています。

 そこには、他者の痛みや苦しみを知り、その過ち受け止め、そのうえで、彼ら赦される神の愛があります。イエスの十字架の意味と意義を知る者にとって、それは、弱さではなく強さであり、敗北ではなく勝利なのです。



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