月刊誌リジョイス 聖書日課 2009年5月4日(月)

エゼキエル12章 主の裁きの目的

「わたしが彼らを国々の中に散らし、諸国にまき散らすとき、彼らは、わたしが主なる神であることを知るようになる。しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル12:15-16)

 エゼキエル書には、「そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」という定型句が繰り返し出てきます。この章にも三度出てきます(15、16、20節)。これは主の裁きと憐れみの目的を示すものです。

 主は、エゼキエルを通して、エルサレムに対する裁きを告げられます。この裁きの厳しさは、積み重ねられたエルサレムの罪によることですが、裁かれる人々にとっては、耐え難いものだったことでしょう。

 しかし、主の御心は御自身の民を永久に滅ぼすことではありません。民が、「主が主である」ことを試練の中で本当に知るようになることを望まれたのです。そして、主を知ることができたなら、そこから確かな一歩を踏み出すことができます。

 私たちにとって、主の裁きが厳し過ぎるように思われるときがあるかも知れません。しかし、そのことを通して主は、御自身が真実なる神、主であることを知らせようとしておられるのです。主の裁きは、信じる私たちにとっては、確かさに導く恵みであることを覚えたいものです。

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