月刊誌リジョイス 聖書日課 2010年5月14日(金)

ヨハネ12章 わたしも一粒の麦となって

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。…わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(ヨハネ12:24-26)

 何人かのギリシア人が、「イエスにお目にかかりたい」と申し出ます。よみがえったラザロの出来事を知り、命の主にお会いしたいと願ったのかもしれません。この方にこそ、世界に希望をもたらす命があるからです。

 福音の広がり。それはもちろん、私たちの願いでもあります。そう願うときに、何より目を留めるべきは、復活の命は、十字架の死を経て与えられたという事実です。十字架は、主イエスが私たちを愛し、私たちの身代わりとして、命の源である父に自身を献げることを、ご自身の栄光としてくださった証しです。そして御子の愛の極みである死に、御父の愛の極みである命が注がれたのです。一粒の麦が死ぬことによって、多くの実を結ぶ命が現れました。

 福音の広がり。それは勇ましい掛け声や、巧みに整えられた計画によって、成し遂げられるものではありません。それは、私たち一人一人が、あの人この人のために、一粒の麦となって自分を捨てる道がどこにあるかを尋ね求めるときにのみ、立ち現れるものです。今日、わたしも、誰かのために一粒の麦となれますように。

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