月刊誌リジョイス 聖書日課 2014年11月14日(金)

1ヨハネ3章 キリストに捕らえられた信仰生活

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。(1ヨハネ3:2-3)

 私たちは既に神の子です。御子イエス・キリストが来られる再臨のとき、私たちは確実に御子に似た者とされます。この神の子キリストを信じて信仰生活が始まり、御子を目指して信仰生活を送ります。つまり、私たちの信仰生活は徹頭徹尾神の子キリストにある、といえるのです。

 ですから、御子に望みを置く人は、御子にならって自分自身を清めようと励みます。私たちは御子のものだからです。御子によって罪から救い出されたことを感謝しているからです。

 こう考えると、弱さのために罪を犯すことがあっても、私たちの信仰生活の全局面は、御子によって捕らえられているといってよいでしょう。

 信仰生活の途上では、罪を犯し、危機に見舞われ、礼拝の喜びを実感できなくなることさえあるかも知れません。しかし、そのような信仰の危機の時もまた、御子によって捕らえられた信仰生活の一地点にほかなりません。

 信仰生活の目指すところはなんでしょうか。それはどのような時にも御子に望みをかけ、御子に似た者とならせていただくことです。

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