月刊誌リジョイス 聖書日課 2016年6月4日(土)

ヨハネ7章 キリストの時を信じる

そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(ヨハネ7:6-7)

 生きることは、時を刻むことでもあります。私たちはどういう時を刻んで生きているのでしょうか。ある人は、「わたしの時間は、わたしのものだから、どう使おうが構わない」と言うでしょう。またある人は、「わたしの将来設計は、わたしが計画を立てて、その実現のために、時間をかけて努力するのだ」と言うでしょう。主イエスがおっしゃった「あなたがたの時はいつも備えられている」とは、まさにそういうことです。自分の思いどおりに時を過ごし、神さえも好きなように動かそうとすることなのです。

 しかし、主イエスは、「わたしの時」とおっしゃいました。その「わたしの時」とは、主が十字架にかけられる時を指し示しています。主は、人々とは違う、神の時を刻んで生きておられました。

 私たちキリスト者は、他の人々と同じ時の中を生きています。しかし、その中心にはいつも、神が定められた時を忠実に歩まれた主イエスがおられます。そして、主の十字架を見上げる度に、神の大きな愛を知り、罪赦されている恵みを覚えます。私たちは、主と共に時を刻む歩みへといつも招かれています。

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