月刊誌リジョイス 聖書日課 2017年6月12日(月)

ローマ3章 律法の実行と義

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(ローマ3:20)

 ここで言われている律法の実行とは、割礼を施すという儀式的な事柄を指しています。

 創世記17章には、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしとして、この割礼という儀式が記されています。この契約は義なる神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民に加えられるという、百パーセント神が主体の恵みの契約でした。そして神は、アブラハムを彼の信仰によって義と認め、神の民としてくださったのです。

 しかしユダヤ人たちは、目に見えない信仰よりも、目に見える割礼という儀式を第一に考えました。すなわち百パーセント神が主体の恵みの契約に、自分たちの儀式や善い行いを介入させたのです。

 パウロは善い行いを追求しても、結局はそれを完全に実行できない自分の空しさ、すなわち罪の自覚だけを見出すのだと語ります。

 主イエスは十字架の死によってこの罪を完全に償い、義を獲得してくださいました。私たちは、主イエスを信じることによって義とされ、神の前に正しい者とされています。その主イエスと共に平和の一日を歩みましょう。

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