月刊誌リジョイス 聖書日課 2017年7月24日(月)

ヨハネ19章 成し遂げられた

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)

 主イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。この言葉を語られる直前、主イエスは十字架の上で、「渇く」と言われました。それは、わたしは干上がったという言葉です。なぜか?それは、注ぎ切ったからです。泉のように主イエスの内側に潤っていた命の水は、十字架の上で注ぎ切られ、主イエスはカラカラになられました。その命の水の、最後の一滴が注ぎ切られたという完了の合図が、「成し遂げられた」という言葉だったのです。では、その主イエスの命の潤いは、どこに向かって注ぎ切られたのでしょうか?

 『ハイデルベルク』は、「教皇のミサ」という言葉に、私たち自身が自分の救いを成し遂げるという自力救済の救いを読み取ったうえで、それを否定しています。

 主イエスは「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」とも言われました。十字架の犠牲と死は、私たちの救いのために「成し遂げられた」主イエスからの命の贈り物です。自力でではなく、その命をただ主イエスからいただくことで、私たちは救われ生きるのです。

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