月刊誌リジョイス 聖書日課 2019年4月28日(日)

ヨハネ20章19-31節 信じる幸い

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)

 主イエスは十字架にかけられ、死んでしまったはずでした。しかし、死んだはずの主イエスが鍵のかかっていた家の中に入り、弟子たちの真ん中に立っています。復活の主イエスは平和の挨拶をされ、穴の空いたご自身の手と脇腹を弟子たちにお見せになりました。しかし、トマスは、この場にいませんでした。

 トマスは、自分の目で直接に釘跡を見なければ主イエスの復活を信じることはできないと言いました。私たちも、主イエスと直接会い、目の前で奇跡や癒やしの業を見たいと願い、「この目で見たら信じられるのに」と思ってしまうときがあります。

 しかし、主イエスの十字架は、主イエスと直接出会った人びとにだけ関係するものではありません。今も、聖書を通して、主イエスの十字架の釘跡があなたの前に差し出されています。主イエスは、鍵をかけて恐れ続けているような私たちの心の真ん中に立って、「平和」を宣言してくださいます。

 肉体の目では見えなくとも、主イエスを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白できる者に、主イエスは「幸い」だとおっしゃいます。

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