月刊誌リジョイス 聖書日課 2019年12月10日(火)

エゼキエル21章 神から試みられるとき

  

それは試みを経たものである。もし、それが侮る杖でないとしたら、一体何であろう、と主なる神は言われる。(エゼキエル21:18)

 ネゲブの森を焼き尽くす火も、エルサレムに向かって送られる剣も、神が神の民を、罪から悔い改めさせて引き戻させるための試練でした。それらの試練が「杖」と言われています。

 火が森を焼き尽くしていくことは、イスラエルの民の目には、神の裁きとして見えたことでしょう。同じように、エルサレムに向けられた剣も、神の裁きとして見えたことと思います。しかし、これらの試練は、神の民が罪を悔い改め、神に立ち帰るよう期待されて起きたことでした。もし、神の裁きが民を苦しめるだけのものなら、神からの預言もなく、悔い改めへの招きもなかったでしょう。

 私たちの信仰生活でも、時には試練が、神の裁きのように見えることがあります。しかし、その試練の中でもなお神を信頼することができます。聖書がこう約束しているからです。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5〜6節)。

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