聖書を開こう 2022年10月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  指導者への従順と祈り(ヘブライ13:17-19)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の中では、自分に対して従順を求める指導者は、時としてうさん臭く思われてしまうかもしれません。しかし、もし教会の中で誰も指導者の言うことを聞かなければ、その教会は健全に成長することはできなくなってしまいます。もちろん、その指導者が神によって立てられ、神の言葉に対して従順な指導者であるということが前提であることは言うまでもありません。そうでない指導者に対して教会が従順であれば、それもまた教会の健全な成長を妨げてしまいます。

 きょう取り上げようとしている個所には指導者に対して従順であるように、という勧めがなされています。
 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章17節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。

 今お読みした個所の中に、指導者に対して従順であるように、という勧めの言葉が出てきました。どういうコンテキストの中でそのことがいわれなければならなかったのか、若干唐突な印象を受けるかもしれません。

 少なくとも、この「ヘブライ人への手紙」が「指導者」について触れるのは、この13章の中だけであること、それも「指導者」という言葉は、今日取り上げた個所を含めて3回しかでてこないこと。そのうち、13章7節は現在の指導者たちのことではなく、過去の指導者たちのことですから、この手紙の著者が、なぜ指導者たちヘの従順のことをここで勧めなければならないのか、その必然性は必ずしも明白ではありません。

 単に一般論として、指導者たちへの従順を勧めているのか、はたまた、指導者たちに対して従順でないような何か特別な問題が教会の中にあったのか、それを特定するのは、この短い文脈の中では困難です。

 13章の9節で、いろいろ異なった教えに惑わされてはならないことが勧められていましたが、そのいろいろな惑わすような教えを教えていた指導者たちに対して、本物の指導者を見分けて、その指導に従うようにという勧めであるとするなら、確かにこうした勧めの言葉は、この手紙の読者たちには必要であったかもしれません。

 「いろいろ異なった教え」というものは、それ自体、新鮮で魅力的な印象を受けやすいものです。それに対して、教会の指導者たちの教えや指導は、地味で保守的に感じられ、その指導を軽んじてしまう誘惑が、指導者たちへの従順を勧める背景にあったのかもしれません。

 もう一つ分かりにくいのは、この手紙の著者と受取人との関係です。この手紙の著者はこの教会にとっての「指導者たち」の一人なのでしょうか。受取人たちから指導者として認められていないとしたら、いったいこの手紙の読者たちは、この手紙をどう受け止めたのだろうかと素朴な疑問が生まれます。

 あるいは、かつては指導者として受け入れられていたけれども、今はそう思われてはいないとしたら、この勧めの言葉は、著者が自分に対する従順を求めているようで、両者の関係のまずさを感じてしまいます。特に続く18節と19節に記されている祈りのリクエストの内容と関連づけてこの個所を読むと、この手紙の読者たちが属する教会とこの手紙の著者との関係に何らかの陰りがあるようにも読めてしまいます。

 というのは、この手紙の著者は、読者たちに対して「明らかな良心を持っている」とその確信を述べて、自己弁明しているようにもとれるからです。続く節では「あなたがたのところへ早く帰れるように」という祈りの要請があります。これも、文字通り今いる場所から読者たちのいる場所へ帰れるようにという願いではなく、離れてしまった関係から、元の関係へと戻れるようにとの願いであるとするなら、そのようなコンテキストの中で語られる「自分を含めた指導者たちへの従順」の勧めには、特別な願いがこめられているようにも読めてしまいます。

 いずれにしても、限られた文脈の中で、どの読み方が正しく状況を把握しているのかは、特定しがたいように思われます。

 このことをいったん脇に置くとして、ここでは著者が抱いている「指導者たる者」に対する思いに心を向けたいと思います。

 第一にこの手紙の中で「指導者」は、委ねられた者たちの魂に関心を抱き、配慮する者であるということです。

 何のために指導者として働いているのか、明確な意識が指導者には求められています。それは自分ヘの関心ではなく、委ねられた者たちのへ関心が優先されているということです。そのことが前提にあって「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい」という勧めの言葉が述べられているのです。逆に言えば、委ねられた者たちの魂に関心を抱かない指導者であるとするなら、そのような指導者は指導者の名に値しません。

 第二に、この手紙の著者がいう「指導者」とは、神に対して自身の働きを申し述べる責任がある者であるということです。自分の働きに対する説明責任は、どんな働きにも伴うものですが、誰に対しての説明責任かといえば、それは神に対する説明責任です。少なくともこの手紙の著者は、指導者の務めをそのように理解しています。神に対して説明責任を求められるからこそ、その働きには重みがあるのです。

 第三に、その働きは決して一方的ではないということです。与えた指導が、受け入れられようが、受け入れられまいが、指導者に何の影響も与えないということはありません。指導が受け入れられる時には、指導者に喜びがもたらされ、指導が拒絶するときには、指導者には嘆くほどの苦痛として返ってきます。

 もちろん、受け入れられない理由が指導者の側にあるのであれば、その苦痛を指導者は甘んじて受けなければならないでしょう。しかし、受け入れられない理由が指導を受ける側にあるのだとしたら、その損失は受ける側に返ってきます。「彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません」と著者が言うのは、まさにそういう意味です。

 この手紙の著者が抱く「指導者」のイメージは、決して指導を与える側と受ける側の上下関係ではなく、一方的な関係でもありません。指導する者には喜びを、指導を受ける者には益をもたらす、そういう関係です。

 そうであるからこそ、指導者への従順を臆面もなく、この手紙の著者は私たちに勧めているのです。

 「エフェソの信徒への手紙」の中で述べられているように、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.