キリストへの時間 2023年11月5日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

唐見敏徳(忠海教会牧師)

唐見敏徳(忠海教会牧師)

メッセージ: 聖書のアレ ♪「『どんなときも』歌:ノア」

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、おはようございます。忠海教会の唐見です。

 今年のプロ野球セリーグは、阪神タイガースが「アレ」しました。アレへのマジックが点灯して、連日のようにアレに関するニュースがあったように感じます。前回の2005年から数えて18年ぶりのアレということで、地元関西はもちろんのこと、秋季キャンプの行われる安芸でも、ずいぶん盛り上がったのではないでしょうか。しつこく「アレ」を連呼しましたが、野球に興味のない方にとっては、いったい何のことだかわかりませんよね。「アレ」とはつまり、優勝のことです。どのチームも優勝を目指してプレイするわけですが、タイガースは、優勝をアレに言い換えて2023年のシーズンを戦い、実際にアレを、すなわち優勝を手にしたわけです。

 さて、実は聖書にも、アレ的な表現があるのをご存じでしょうか。それは、聖書の中で最も使用されている言葉のひとつなのですが、お分かりになりますか。答えは「主」です。聖書の中で「主」という言葉があれば、それは、基本的に神のことを表しています。実例を挙げましょう。たとえば、創世記にあるアブラハム物語の始まりは、このようになっています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。』」(創世記12:1)

 創世記の次の書物、出エジプト記の十戒の場面では、次のように書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト20:2)また、詩編の中で最も親しまれているものの一つ、第23編の書き出しは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)となっています。これらの「主」と訳されている言葉は、若干の例外がありますが、原文では、アドナイ「わたしの主」、という風に読むようになっています。つまり、まことの神がわたしの主人だ、ということを表現しているわけです。

 今、原文ではアドナイ「わたしの主」と読むようになっていて、といいましたが、ここがとても興味深いところです。どういうことかといいますと、それを「主」と読むようにするのだけれども、実際そこには「主」とは書かれていない、ということなのです。では、何が書かれているのかといいますと、ヘブライ語の4つの文字です。「テトラグラマトン」と呼ばれます。発音はおそらく、「ヤハウェ」というようなものだったと考えられています。この言葉はもともと、「存在する」あるいは「ある」という意味を持っていて、これが聖書の語る神の名前なのです。

 この神の名前の由来と考えられる聖書箇所、出エジプト記のモーセの召命の場面には、このように書かれています。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト3:14)「わたしはある」といわれる神は、世界の始まりからおられ、今もおられ、そして、世界の終わりまでおられる永遠の存在です。わたしたち人間には寿命がありますが、聖書が語るまことの神は、永遠に存在される神です。

 この神の名前について、ダビデ・ソロモンの時代は、普通に「ヤハウェ」と呼んでいたようです。しかし、時代が下っていく過程で、神の名を直接呼ぶことはしなくなりました。聖書に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト20:7)という言葉があります。偉大な神の名を直接口にするのは恐れ多いという思いが、神の名であるヤハウェを、別のアレ、「主」で表現しよう、ということになったと考えられています。

 主という言葉は、旧約聖書だけで約7,000回登場します。そこには、「永遠の神がわたしの主」という聖書の神への想いが込められています。タイガースファンのアレへの想いとどちらが強いかはわかりません…。



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