聖書を開こう 2023年9月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神から召されるモーセ(出エジプト3:7-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 リーダーは、それがどんな小さな集団のリーダーであったとしても、その責務は重要です。相応しいリーダーが立てられてこそ、その集団が立ちもし、倒れもします。まして、それが民族や国家の指導者ともなれば、その資質は大きく問われます。

 聖書の中にも、数々のリーダーが登場します。今学んでいるモーセも、偉大なリーダーの一人です。

 聖書の中のリーダーが描かれるとき、しばしば神によって特別に選ばれ、召し出される、という特徴があります。時として、そのリーダーは、人間的な観点からいうと、最初からリーダーとしての条件がすべて整えられているというわけではありません。召し出された本人が、自分の弱さを自覚して、神からの召命を辞退しようとするときもあります。しかし、聖書に登場するリーダにとって大切なのは、自分を召し出してくださった神に従うこと、そして、神がリーダーに必要な資質を備えてくださることです。

 きょうはモーセが神から召命を受ける場面から共に学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記3章7節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 前回はモーセの誕生にまつわる話を聖書から学びました。ファラオの王女に育てられたモーセもやがて成人し、挫折を味わいます。成人したモーセは同胞のイエスラエル人がエジプト人から虐待されているのを見て、無謀にもその虐待するエジプト人を殺害してしまいます。正義感から出た行動であったのかもしれませんが、同胞のイスラエル人からも疎まれてしまいます。

 とうとうこの事件を耳にしたファラオから命を狙われ、逃亡する身となります。モーセはエジプトから逃れて、ミディアン地方のとある祭司のものとに身を寄せます。やがてその娘と結婚し、子どもも与えられるモーセです。時は過ぎ去り、新しいエジプトの王が即位しますが、相変わらずイスラエル人への虐待は続きます。ついに虐待も頂点に達し、神が行動をおこすときとなりました。それがきょう取り上げた個所の背景です。

 モーセにとっては、自分が犯した過去の罪も、もうすっかり世間からは忘れ去られ、このまま平凡な生活を送りたいと思っていたことでしょう。そんな矢先、突然神から声をかけられます。

 羊の群れを追ってホレブの山に来たモーセは、不思議な光景を見ます。炎に包まれた柴が、燃え尽きることもなく、燃え続ける光景です。その不思議の光景を間近で確かめようとして近づくモーセに神は声をかけます。

 それは、虐待されるイスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、神がアブラハムに約束された土地に導いて行け、というものです。人間的に考えれば、無茶苦茶としか思えない招きです。モーセは神にこう問い返します。

 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 かつては正義感から一人の同胞を助けるためにエジプト人を殺害までしたモーセでした。その当時の血気盛んなモーセであったなら、少しはこの呼びかけに心が動いたかもしれません。しかし、今となっては、誰もモーセのことを知る人もいませんし、期待もされていません。モーセ自身もミディアンの地でスタートしたささやかな幸せを手放すことなど、考えたこともなかったことでしょう。

 しかし、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃる神の言葉を信じて、モーセはこう神に応答します。

 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」

 かつての挫折からモーセはしっかりと学んでいたのでしょう。神が共にいるのでなければ、何者でもない自分でしかないと。しかし、本当に神が共にいてくださるのなら、何者にでもなれるのだと。

 聖書に登場するリーダーにとって大切なことは、神が共にいてくださるという確信です。何者でもない自分を自覚し、しかし、その何者でもない自分と共に神がいてくださり、必要に応じて何者にでも自分を変えてくださる神を信じることです。

 モーセが神に従ったのは、神が共にいてくださる、という確信からだけではなかったでしょう。何よりも、神がイスラエル民族の悲惨な境遇をご覧になっておられ、そのために動き始められたことを確信したからでしょう。

 エジプトから出て逃亡生活を送ってきたモーセにとって、あの日、自分がしでかした事件は脳裏から離れることはなかったはずです。自分がしたことは果たして正しかったのか間違っていたのか。何故神は自分を擁護してくださらなかったのか。そんな疑問がいつも頭の中を行ったり来たりしていたことでしょう。

 神が「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と語りかけるとき、あの時の自分の気持ちをモーセは思い出したことでしょう。そして、今、その神が共にいてくださることをモーセは力強く感じたはずです。

 神は決してわたしたちの苦しみに無関心なお方ではありません。時が満ちるときに必ず助けの御手を差し伸べてくださるお方です。そして、自分の無力を思い知り、何もできないと思っている者をこそ、神は用いて下さいます。わたしたちには、無から存在を造り出すことができるお方、「わたしはある」とおっしゃるお方が共にいてくださるのです。

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