聖書を開こう 2023年9月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  過越の祭り(出エジプト12:21-28)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ユダヤ教には旧約聖書の時代から現代にまで受け継がれるお祭りがいくつかあります。その中でもっとも重要なお祭りが「過越の祭り」(ペサハ)と呼ばれるお祭りです。

 この過越の祭りは、その中でささげられる小羊が、十字架にかけられたイエス・キリストを指し示すものとして、新約聖書の中でも重要な意味をもっています(1コリント5:7)。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記12章21節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 前回は、エジプトに隷属されていたイスラエル民族を解放するために、神がモーセを召し出す場面を学びました。その後モーセはファラオのもとへ遣わされていきますが、ファラオは容易に首を縦に振りません。言葉の交渉になかなか応じないファラオに対して、神はモーセを通して十の災いをエジプトにもたらします。その最後の災いが、きょう取り上げた過越の祭りと関係しています。

 最後の災いは、神がエジプトに生まれる最初の者を、ファラオの王宮に生まれる長子であれ、家畜の初子であれ、皆殺してしまうという災いでした。

 しかし、神はエジプトにいるイスラエルの民を守るために、特別なしるしを与え、それを準備させました。そのしるしとは、鴨居と入口の二本の柱に、屠った小羊の血を塗ることでした。このしるしのある家を神は通り過ごされ、イスラエル人の間に生まれた初子を災いから守られたので、この祭りは「過越の祭り」と呼ばれるようになりました。

 そして、神が過ぎこされないエジプト人の家に生まれた初子は、ことごとく神に撃たれたために、とうとうファラオはイスラエルの民がエジプトから出て、約束の地へと旅立つことを不承不承許すことになりました。

 こうして、この出来事はイスラエル民族の救いを記念する祭りとして、現代にまで受け継がれるようになりました。

 さて、この過越の出来事から、いくつかの大切な教訓を学ぶことができます。

 第一に、この過越の出来事を計画し、実行されたのは神ご自身であるということです。このことを通して、神は裁きの神であると同時に恵みと救いの神であることをお示しになっておられます。頑なな罪に留まる者に対しては、容赦のない裁きを実行されるお方ですが、裁きから逃れる救いの道をも備えてくださるお方です。

 もちろん、この救いへの道は、このときイスラエル人に示されたものでした。では、神はエジプト人の救いを考えておられなかったのでしょうか。そうではありませんでした。ことの最初は平和的にイスラエルの民をエジプトから去らせるようにと言葉による交渉から始まりました。それに応じていれば、このような災いは避けることができたはずです。

 それに加えて、このとき災いを逃れてエジプトを出た人々の中にイスラエル人以外の「雑多な人々」がいたことを聖書は語っています(出エジプト12:38)。神は決してイスラエル民族だけに目を留めておられたのではなく、この「雑多な人々」にも救いの道を用意されておられたのです。

 第二に、この過越の出来事から学ぶことができる教訓は、神がモーセを通して命じられた指示に、イスラエルの民が信仰をもって従ったということです。この出来事で大切な点は、単に小羊の血が塗られた家を神が自動的に通り過ごされたということではありません。そうではなく、これをお命じになった神に、イスラエルの民が信仰をもって応答した点に大きな意味があります。

 神が人の外面や、外に現れた行動にではなく、その背後にある心に目を留めておられることは、聖書のあちこちに証言されています。

 例えば、ダビデが王に選ばれるとき、神はサムエルにこうおっしゃいました。

 「容姿や背の高さに目を向けるな。……人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(1サムエル16:7)

 また、人々が惰性でささげる犠牲に対しては、神はこうおっしゃっておられます。

 「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:5)。

 心の内を見ておられる神の言葉に、信仰をもって真摯に応答し、神の救いの恵みを頂くことが大切です。

 第三に、この過越の出来事を記念して行われる過越の祭りの中で、子どもたちがこの祭りの意味を問う時に、親たちはこの祭りの由来と意味を語り継ぐように命じられている場面が出てきます(出エジプト12:26)。

 残念なことに、これほどイスラエルにとって大きな救いをもたらす出来事でしたが、イスラエルの歴史の中で、この祭りが途絶えていた時期がありました。ユダの王ヨシアによって再び行われるようになった次第が列王記下の23章に記されています(列王記下23:21-23)。

 このことから救いの出来事を語り継ぐことの大切さを教えられます。

 キリスト教会にとって、過越の出来事に相当するのは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。その十字架におかかりになる前の晩、イエス・キリストは弟子たちと共に最後の晩餐に臨みました。丁度、過越の祭りの時でした。イエス・キリストはこの最後の食事に特別な意味を与え、これを記念として守るようにと弟子たちに命じられました。これが今日の教会にまで語り継がれ、守られている聖餐式です。

 この聖餐式の中で、キリストの救いの恵みを覚え、それをただ過去の出来事としてではなく、今なおわたしを生かす恵みとして信仰をもって受け取ることが重要です。そうすることで、エジプトでの隷属から新たな出発を得たイスラエルの民のように、日々に新しくされる新たな出発の恵みを頂くことができるのです。

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