聖書を開こう 2023年9月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  天からのパン(出エジプト16:1-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 生きていく上での不安は、誰にでもあると思います。そして、その不安は「衣食住」と深く結びついています。着るものがあるか、食べるものがあるか、住むところがあるか、どの一つが欠けても、不安が襲います。

 今学んでいる出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの民は、さっそく食べることと結びついた不安に直面します。そこから不平を漏らすイスラエルの民でした。神は民の不平を耳にして、不思議な方法で食べ物を与えて、たちどころに民の不安と不満を解消します。

 しかし、この出来事が物語っていることは、それだけの単純なことではありません。ここには私たちが生きる上で大切にしなければならない教訓が含まれています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記16章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第2の月の15日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、6日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」

 今日取り上げた個所は、イスラエルの民がエジプトを脱出してからひと月が過ぎた時の出来事です。彼らがもと住んでいた場所から目指す約束の地までは、地中海沿いの最短距離を進めばひと月もかかるような距離ではありません。

 ただ、最短距離を進まなかったのは、そこに神の御心があったからです。シナイ山で十戒を授かるため、ということも最短のコースをたどらなかった理由ですが、何よりも、荒れ野を通ることで、神によって相応しい訓練を受け、神の民として整えられていったというのも真実です。そして、そのような回り道をとおって整えられていくのは、今を生きる私たちにとっても当てはまることだと思います。

 エジプトを脱出して、ひと月目に直面したのは食糧難でした。各々の家庭が当座の食料を携えて出たとしても、ひと月で底をついてしまうのは、ある程度予想できたことでした。当然、行く道々で調達できるという心づもりは皆が持っていたことでしょう。

 ところが、一行がシンの荒れ野へと進むと、民の中から不平の声が上がります。現実に食べ物が底をついたというよりも、荒れ野に足を踏み入れるにしたがって、食べ物の心配が大きくなっていったのかもしれません。その不平の声は、少し大げさのようにも聞こえます。

 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

 エジプトにいた頃、というのはつい最近のことです。その時のイスラエルの民は過酷極まる労働に従事していたので、決して楽な生活ではなかったはずです。実際、その過酷さに耐えかねた民のうめき声は、神の耳に到達するほどでした(出エジプト6:5)。にもかかわらず、つい最近のエジプトでの暮らしの方がよかったなどと口にしているのは、今直面している困難に対する単なる不満としか思えません。

 百歩譲って、彼らが奴隷として生きていけるだけの肉をもらい、パンを食べることができたとしても、決して満腹になるほどではなかったと思われます。仮に満腹だったとしても、そもそも、人の命を支え、必要なものをお与えくださるお方が、どなたであるのか、根本的な誤解がイスラエルの民にはあるようです。

 「主の手にかかって、死んだ方がましだった」などと口にはしますが、主なる神が命も死も支配できるお方と信じているようには思えません。もしそうであるなら、モーセに不満をぶちまける前に、神に今の窮状を真摯に訴え、助けを求めたことでしょう。

 彼らの一番の問題は、神への訴えを差し置いて、モーセに不満をぶつけていることです。しかも、その不平の声は、神の耳に届きました。

 そのようなイスラエルの民に対して、神はご自身こそが、必要なものを与える力のあるお方であることをお示しになります。朝には「マナ」を、夕べには「うずら」もって彼らの命を養われます。面白いことに、この「マナ」は蓄えておくことができません(出エジプト16:20-21)。日々、神が養ってくださることを学ばせるためでしょう。

 主イエス・キリストはモーセよりもずっと後の時代になって遣わされましたが、その祈りの中で、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るようにと教えておられます。この真摯な祈りが形だけになったとき、いつしか、自分の命は貯えの多さによって支えられると勘違いするようになってしまいます。

 また、主イエス・キリストは、石をパンに変えてみよというサタンの誘惑を受けたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という申命記の言葉で、その誘惑を退けました。申命記8章3節からの引用です。それは、まさに荒れ野を旅したイスラエルの民が神から頂いたマナから学ぶべき点でした。

 あの時、マナをいただいた民は、このマナによって養われているのではなく、このマナを与えてくださった神の言葉によって生かされていることを学ぶようにと訓練の機会を与えられていたのです。

 これは私たちにとってもとても重要なポイントです。この人生の中には、様々な困難が起こります。それは避けがたいことと言っても言い過ぎではありません。そしてそのような困難から解放されることを願うことは、決して悪い言ではありません。ただ、大切なことは、こうした困難を通して、神こそがわたしたちの全生涯を支えてくださるお方であることを学びとり、そう信じて神に頼って歩み続けることです。このことを神はイスラエルの民に望み、また、私たちにも望んでおられるのです。

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