聖書を開こう 2023年11月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  果敢な信仰の導き手(士師4:1-7)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨシュアが亡くなったあと、イスラエルの民を士師と呼ばれる指導的人々によって導かれます。これらの人々はヨシュアが亡くなってから、王制の時代に入るまでの間、絶えることなく連続的に存在していたわけではありません。士師の活躍を記した旧約聖書の『士師記』には、士師が登場するきっかけとなる出来事がほとんどパターン化されて記されています。それはイスラエルの民の信仰が失われつつあるときに、外敵からの困難が国を襲い、民が救いを求めて神に叫び声をあげるときに、主なる神が士師たちを遣わした、というパターン です。

 その時代を生きたことがない私たちからすれば、そうした学習しない民の不信仰の繰り返しは、滑稽とも感じられるかもしれません。しかし、それが人間の持つ罪深さであり、また、弱さである点で、実は今を生きる私たちにも共通していることを悟ることが、この書物に学ぶ大切なポイントです。

 士師記の一番最後には、士師たちが指導に当たった時代を総括して、このように論評しています。

 「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21:25)。

 神を差し置いて、それぞれが自分の王であるような生き方、それが士師の時代を流れる人々のライフスタイルでした。まさにそこに問題を生み出す根があることを『士師記』の著者は指摘しています。

 今回は数ある士師たちの中から、唯一女性の士師であったデボラを取り上げて学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 士師記4章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車900両を有し、20年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人1万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」

 この個所は他の士師たちが登場するきっかけと同じように、まず、イスラエルの民の罪が蔓延し、そのために外敵の手にイスラエルの民が苦しめられる様子を記します。もちろん、このことから単純に私たちを襲う困難が、すべて自分たちの罪に起因していると結論付けることはできません。むしろ、現代においては神の忍耐と憐れみのゆえに、こんなにも罪や不信仰が明らかにされることがないために、自分自身の内面の問題を自分自身で深く内省することが求められています。

 そして、これもまた士師記にパターン化されていることですが、困難に直面したイスラエルの民は、自分たちが神の助けを必要としていることに気が付き、神に助けを求めます。

 このような学習しない民の行動を見て、私たちは滑稽に感じるかもしれません。しかし、ここからも学ぶべき点があります。それは、自分の本当の必要に気が付いたときに、イスラエルの民がいち早く神に助けを求める姿勢です。わたしたちは、思う以上に心をかたくなにしてしまう存在です。神の助けを必要としていることが分かっていても、理由をつけては、それを先へ伸ばそうとしがちです。しかし、ほんとに必要な時に、へりくだって神に助けを求めることは、とても大切なことなのです。

 その求めに対して、神はこのとき、女預言者のデボラを遣わされました。数ある士師たちの中で、後にも先にも女性の士師はこのデボラだけです。

 現代では男女同権が謳われています。しかし、それでも女性に対する偏見や差別はなくならないのが人間の社会です。そう考えると、女預言者のデボラが神から遣わされたことを。当時の人々がどのように受け止めたのか興味をそそられます。士師記を読む限り、女性であるがゆえに民たちから抵抗を受けたような記述は見当たりません。もちろん、そこから直ちに当時のイスラエルが女性に対して相当な敬意を払っていたと簡単に結論付けることはできないでしょう。藁をもつかむ思いで、神から遣わされてくる者を受け入れただけなのかもしれません。

 一般的に言って男尊女卑の思いが強いこの世の世界を思うときに、デボラが遣わされてきたことは、イスラエルの人々にとって何の波紋も投げかけなかったとは考えにくいように思われます。それを乗り越える信仰のチャレンジがあったことでしょう。それは人々の心の中に先立って、デボラ自身にもあったはずです。

 この世の常識に抗って進むことは、どんな人にとってもチャレンジなことです。そして、そこには確信と勇気が求められます。デボラにとってもそれを受け入れるイスラエルの民にとっても、それを神の摂理と確信するのでなければ、前へ進むことはできなかったでしょう。そのことをただ「藁をもつかむ思い」から出た行動だと言ってしまうことはできないように思います。

 このことは個々人の人生の戦いの中でも言えることです。確信が持てないことや疑いながら進めることは、多くの場合、失敗へと至ることが多いように思われます。デボラのように神からの直接の語りかけを受けない私たちには、神の摂理ははっきりとはしません。しかし、そうだからと言って、そこに惰性で留まり続けることも、がむしゃらに前に進むことも危険です。祈りの中で神の導きを求めつつ、信じる心で進むことが大切です。

 確かに聖書には、個々人が選択すべき個々人の歩みについては記されていません。どんな仕事に就くべきか、自分が生きる社会の中でどんな貢献をすべきか、その答えが個別に聖書に記されてはいません。しかし、何事に取り組むにしても、そこに求められる神の御心ははっきりと聖書に記されています。それは、そのことを通して神を愛し、人を愛することが実現できるのか、その結果、自分自身が神の栄光を称えることができるのか、その点に確信を持つことができるよう、祈りつつ進むことが大切です。

 またデボラの話は、信仰的な勇気の大切さを私たちに教えてくれています。イスラエルの民を苦しめていたカナンの王ヤビンには鉄の戦車900両がありました。軍事力という点では、かなう相手ではないことは一目瞭然です。しかし、聖書はこの戦いを軍事力の衝突として、描こうとはしません。描かれているのは、主の言葉に信頼した結果だけです。主が敵方を混乱させられたことが勝利の要因であることを聖書は記しています。

 私たちを超えた神への信頼から出る信仰的な勇気によって、私たちは思いを超えた道へと導かれていくのです。

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