聖書を開こう 2024年1月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  救い主の名前(マタイ1:18-25)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしたちはイエス・キリストのことをしばしば「救い主」と呼んでいます。しかし、意外に思われるかもしれませんが、聖書の中にはイエス・キリストのことを「救い主」と呼んでいる個所はそんなにたくさんはありません。20回にも満たないくらいです。もちろん、キリスト教会がイエス・キリストを自分たちの救い主であることを信じていないわけではありません。

 きょうこれから取り上げる聖書の個所にも「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と記されていて、このお方が罪から人を救う「救い主」であることが示されています。しかし、それにもかかわらず、「救い主」という言い方そのものは、思ったほどたくさん聖書には出てきません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 1章18節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 今週も引き続きマタイによる福音書1章から学びを続けて行きたいと思います。

 マタイによる福音書は、この福音書の中心となるお方、イエス・キリストの系図を記した後に、そのお方がどのようにしてお生まれになったのか、また、そのお方はどういう使命をもって神から遣わされたお方であるのかを記しています。

 ルカによる福音書がマリアの側からイエス・キリストの誕生の次第を記しているのに対して、マタイによる福音書は夫ヨセフの側から同じ出来事を記しています。ヨセフのことを夫と呼んではいますが、実際には婚約はしていたものの結婚前のことでした。

 マタイによる福音書では、主の天使がヨセフに対して、マリアが身ごもっている子供が聖霊によるものであることが告げられます。

 ルカによる福音書と一点違う点は、マリアに対してはことが起こる前にそのことが告げられたのに対して、ヨセフの場合はマリアのお腹に子供が宿っていることが明らかになってからの出来事でした(マタイ1:18)。

 明らかになったとは記されていますが、町の人たちの誰もが気づくほどではなかったのでしょう。ヨセフはこのことを表ざたにはしないで、秘かに離縁することを決意します(マタイ1:19)。

 ヨセフがマリアの異変にどうして気が付いたのか、ここでは明らかではありません。少なくともマリアの口から直接聞いていれば、このことが起こったのは、神の御業であることも聞いていたでしょう。しかし、ヨセフはそのことを知らずに悩んでいたようです。

 確かに18節には「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とは記されていますが、そのことが明らかにされたのは、マリアに対してであって、夫のヨセフに対しては明らかではありませんでした。20節からもわかるように、ヨセフには後からそのことが告げられます。

 マリアの口から直接何も知らされていないヨセフの悩みはどれほどであったかと思われます。マリアに何が起こっているのか問いただすこともできないヨセフです。その悩むヨセフに対して、主の御使いがすべてのことを明らかに告げます。

 そんなことなら、最初からマリアに対してしたように、ヨセフにもことが起こる前に告げればよかったのに、と思われるかもしれません。神はときどき人間の思いとは違うことをなさいます。その理由は明らかにされてはいませんが、少なくともこのような試練を通してこそ、ヨセフは、マリアに対しても神に対しても真剣に向き合うことができたのではないかと思います。

 さて、ヨセフに対して天使が告げたことは、お腹の子が聖霊によって宿ったという事実だけではありませんでした。この子に与えられる使命とそれに相応しい名前、それからこのことが起こった意味が、旧約聖書の預言の言葉と関連付けられて語られています。

 冒頭でも述べた通り、生まれてくる子の使命は、「自分の民を罪から救う」ためでした。「自分の民」という言い方は、生まれてくる子供がご自分の民を持つ「王」であることが暗示されています。まことの王として、ご自分の民を罪から救うために生まれてくるお方です。

 そして、その子の名を「イエス」と名付けるようにと命じられています。「イエス」という名前は、ヘブライ語の「ヨシュア」に相当する名前です。その名前は「主は救い」という意味です。言い換えれば、その名前自体に、生まれてくる子が救い主であることが暗示されています。ですから、ヘブライ語の意味を知っている人たちにとっては、このお方を「救い主イエス」と呼ぶのはくどいように響いたのかもしれません。

 もう一つ、マタイによる福音書が告げた大切なことは、起こっていることの意味です。マタイによる福音書はイザヤの預言を引用して、この出来事が預言の成就であることを告げます。このマタイによる福音書の特徴の一つは、福音書に記される救いの出来事が、預言者によって古の昔から約束されていたことの成就であることを都度都度に明らかにしていることです。

 イエス・キリストの誕生もまた、決して偶然の出来事ではなく、そこには神の救いのご計画があり、前もって約束されていたことの成就であることが明らかにされています。

 マタイによる福音書が引用したイザヤ書7章に記された預言の言葉には二つの重要なことが記されています。ひとつは「おとめが身ごもって男の子を産む」ということ。それはまさにおとめマリアにおいて実現しました。

 もう一つの大切な点は、生まれてくる子がインマヌエル、「神は我々と共におられる」という名前を持っておられるということです。つまり、生まれてくる子供は「主は救い」(イエス)であると同時に、神が我々と共におられることを体現しているということです。

 ヨハネによる福音書もまた、そのプロローグで「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と記しています。神の子イエス・キリストだけが父なる神が今ここに共におられることをお示しになるお方であることを、ヨハネ福音書は実感をもって記しています。そのような名前を帯びたお方が、わたしたちの救い主として、わたしたちのところへ来て下さったのです。

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