聖書を開こう 2024年7月11日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  豚に真珠



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たち人間が使う表現やことわざには、しばしば動物が登場します。たとえば、「犬猿の仲」「水を得た魚」「猫に鰹節を預ける」「狐につままれる」などなど、探せばきりがないほどたくさん出てきます。そこに登場する動物たちは、どれも人々の生活に密着したものばかりです。

 もちろん、それぞれの表現やことわざは文化や生活が関わっているために、それをそのまま他の言語に直訳しても、意味が通じないものがあります。先ほどの「狐につままれる」という表現を英語に直訳しても、おそらくなんのことだかさっぱり通じないでしょう。もしかしたら、日本人でもその意味が分からない人がいるかもしれません。

 きょう取り上げるイエス・キリストの言葉にも、二種類の動物が出てきます

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 先ほどお読みした聖書の言葉の中で、「真珠を豚に投げてはならない」という言葉は、一般に「豚に真珠」という表現でよく知られています。日本では「猫に小判」という慣用句や「馬の耳に念仏」ということわざがあって、それとよく似ていると言われます。

 確かにそれらの表現には共通した点があります。一つは、真珠や小判や念仏も、この表現が生まれた文化圏の人々には、価値のあるものです。そして、もう一つの共通点は、そこに登場する動物たちには、その価値がわからないという点です。

 しかし、そこには相違点もあります。「猫」や「馬」はこのことわざが使われる文化圏でる日本では、決して嫌われる動物ではありません。猫は「枕草子」や「源氏物語」にも登場しているとおり、古くからペットとして可愛がられていました。馬も同様に荷物や人を運んだり、農作業に使われる二との役に立つ動物でした。

 けれども、「豚」はというと、ユダヤ人の世界では汚れた動物として嫌われていました。福音書の中には豚を飼う者たちの話も出てきますが、それはユダヤ人の社会ではなく、異邦人の世界の話です(マタイ8:30-33、ルカ15:15-16)。

 なぜ豚が嫌われるようになったかというと、旧約聖書のレビ記の中に汚れたものとして食べてはならない動物の規定があります。そこにはこう書いてあります。

 「従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない」(レビ記11:3)。

 そのような動物の例として、ラクダや岩狸、猪が汚れた動物として挙げられています。豚も猪と同様に蹄が分かれていても反芻をしない動物なので食べることが禁じられた汚れた動物です。

 もっとも、豚が嫌われていたのは、それだけの理由ではありません。汚れた動物だから真珠を投げ与えるな、というのであれば、「ラクダに真珠」でも「岩狸に真珠」でもよかったはずです。

 聖書やユダヤ人たちが残した文書に出てくる豚を調べてみると、「豚の血をささげる者」(イザヤ66:3)や「他国人の慣習に従い…豚や不浄な動物をいけにえとして献げ」ることへの言及が見られることから、豚が祭儀の捧げものとして異教徒の間で用いられていたことが伺われます。そうしたことへの反感も豚への嫌悪感として定着していたのかもしれません。

 また、聖書にはこんなことわざも紹介されています、。

 「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」(2ペトロ2:22)

 せっかく綺麗に洗っても、また泥の中を転げまわって汚くなっていく様子から、直観的に豚に対する軽蔑と嫌悪感を抱くようになったということもあるかもしれません。

 そうした背景で「豚に真珠」という言葉を改めて読み直してみると、それは「猫に小判」や「馬の耳に念仏」とは、明らかに違ったニュアンスの言葉です。

 同じように「神聖なものを犬に与えてはならない」という言葉も、「犬」に対するユダヤ人たちの文化的な背景を理解しなければなりません。ユダヤ人たちにとって犬は決して、人に懐いて忠誠心を発揮する、そういう動物ではありませんでした。

 聖書の中に出てくる犬は、ペットとして飼われている犬ではなく、人の手で管理されない野犬がほとんどです。そこに描かれる特徴は、人や家畜に向かって唸り声を上げること(出エジプト11:7)、死体があればそれを食べること(列王記上14:11)、吐いたものに戻っていくことです(箴言26:11、2ペトロ2:22)。どれも決して良いイメージではありません。

 そして、イエス・キリストは犬も豚も、挙句の果てには「向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」とおっしゃっています。

 猫は小判をもらっても噛みついたりしないでしょうし、馬は念仏を聞かされて暴れて人に危害を加えることもしないでしょう。しかし、イエス・キリストがここで取り上げた動物たちはそうではありません。せっかく素晴らしいものを与えても、その価値がわからないどころか、歯向かってくるような動物です。

 もちろん、ここで、イエス・キリストがおっしゃりたいことは、文字通り犬に聖なるものを与えることや、豚に真珠を投げることではありません。動物が問題なのではなく、受け取り手の人間をそのように例えているのです。

 それは、単に神の教えの価値を理解できない人というのではありません。価値が理解できないどころか、伝え手に歯向かう程の抵抗を示す人です。

 イエス・キリストとその弟子たちの活動の文脈の中で言えば、律法学者やファリサイ派の人たちがそうであったかもしれません。

 では、この言葉を私たちの文脈の中でどう理解したらよいのでしょうか。確かに福音を宣べ伝えるときに、素直に聞き入れない人たちに出会うことがあります。いえ、その方がはるかに多いかもしれません。素直に聞こうとしない人には、福音を語るな、ということでしょうか。さすがにそれはないでしょう。

 では、反論を通り越して、迫害さえしてくる人のことでしょうか。そういう人には福音を語るな、ということでしょうか。そうであるなら、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエス・キリストの言葉はどうなるのでしょうか。

 もし、きょう取り上げた言葉を私たちの生きる文脈の中で考えるとすれば、それは誰か他の人に対してではなく、まずは自分自身への問いかけとして受け取ることが大切ではないでしょうか。聖書を通して語り掛けてくださるイエス・キリストの言葉を価値あるものとして受け入れ、喜んで従う者となっているか、その自己吟味が必要です。犬や豚に成り下がって、神に歯向かってはいないか、そのことの吟味こそが大切です。

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