月刊誌リジョイス 聖書日課 2019年6月19日(水)

詩編60編 弱く罪深い者が、神の尊い器とされて

神は聖所から宣言された。
「…ギレアドはわたしのもの
マナセもわたしのもの
エフライムはわたしの頭の兜
ユダはわたしの采配」(詩編60:8-9)

 この詩編は、8〜10節の中央部とその前後の部分から成り立ち、中央部の前後の部分では、嘆きと願いが神に訴えられており、中央部は、預言者が語ったと思われる神の言葉が語られています。

 10節に、モアブ、エドム、ペリシテとあります。歴史的にイスラエルは、これらの国々にいつも悩まされていた弱小の国でした。そのイスラエルに対して、神は、わたしの頭の兜であり、采配(指揮のための用具)であるとまで言ってくださっています。

 イスラエルのみならず、私たちも本当に弱く、罪深い者です。しかし、本日の御言葉を聴くとき、私たちもまた、神によって、神の兜、采配とされていることを、深く自覚したいものです。教会の中には、真に真摯な方がおられ、自分の弱さ、罪深さを覚え、そのことにいつまでも悲しみ、苦しんでいる方もおられます。勿論、自らの弱さ、罪深さを深く知ることは重要であり、必須です。なぜなら、それを知ることなしに救いに与ることはできないからです。しかし、その一方で、そうした自分が神から赦されており、神の尊い器とされていることも、深く知らなければならないのです。

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