何を頼みとして生きるのか | 詩編 52編

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詩編 52編

わたしは生い茂るオリーブの木。
神の家にとどまります。
世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 52編10節

何を頼みとして生きるのか

ここには、神を力とせず、自分の悪事を誇り、莫大な富に依り頼む者(3、9節)と、神の慈しみに依り頼む人(10、11節)との違いが対照的に語られています。

2節に記されているアヒメレクは祭司で、サウル王に追われ、逃亡生活をおくるダビデに、備えのパンとゴリアトの剣を与えて助けました。これをサウルに告げたのがドエグです。サウルに命じられてでしたが、ドエグは祭司ら85人とその家族、町の住民を皆殺しにする残虐さを露わにしました(サム上21、22章)。

「力ある者」の罪は、人を欺き破滅に落とす刃物、カミソリのように鋭い舌、言葉となって表れます(4~6節)。これはいつの世においても事実です。自分を滅ぼすものを力と頼む者は、やがて神によって倒され、根こそぎにされ、永久に滅ぼされます。

一方、神に従う人は、このような神の裁きの現れを見て、神を畏れます(7、8節)。この世にあっても、神はご計画による裁きをもって、神の正義の栄光を輝かせてくださいます。

神の慈しみに生きる人とは誰を指すのでしょうか。神の契約の真実に依り頼み、神の完全な正義が明らかになる日を望みつつ、神の家にとどまり続ける礼拝の民こそ、その人です(10節)。キリストにあって、あなたもそのひとりなのです。

【祈り】

神よ、あなたの計らいは確かです。わたしは御名に望みをおきます。

漆崎 英之(金沢伝道所)