偶像を礼拝する誤りの本質 | アモス書 5章

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アモス書 5章

イスラエルの家よ
かつて40年の間、荒れ野にいたとき
お前たちはわたしに
いけにえや献げ物をささげただろうか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 アモス書 5章25節

偶像を礼拝する誤りの本質

聖書の信仰は、神の言葉を聞くことから始まります。モーセに導かれた荒れ野の40年、食べる物もなく、羊の群れはいても神に献げることもできない民に、神は「天からパンを降らせ」て養い(出エジ16章4節)、人は神の口から出る御言葉をいただいて生きることを教えられました。しかし、それでも民は不安を埋めるため、御言葉の代わりに人の手による形を拝んだのです。この致命的な誤りである偶像礼拝がイスラエルから除かれることはありませんでした。

では、偶像を造らず拝まなければ、それでよいのでしょうか。物質的に恵まれた時代になり、いけにえと献げものを祭壇に並べ立てても、敬虔さを装い行う祭事は神を悲しませる虚しいものでしかありません。

この信仰の本質を民に理解させるために、戒めを教え説き明かす務めを担ったのが預言者でした。そらんじるほどに知られている神の御言葉であっても、民が皆よく理解していたとは限りません。そこに命をかけた預言者の説教がなければ、民に命の御言葉が響くことはありません。

偶像との闘いは、生ける御言葉のための闘いなのです。また、偶像は、何気ない日常のどこにでも潜んでいます。神を見失わないように、生きた御言葉に心を注ぎたいと願います。

【祈り】

神の御言葉をとりつぐ者と心を注いで聴く者が、真の礼拝にあずかり、また、つくることができますように。

小川 洋(高松教会)