神が与えられた「時」を思う | コヘレトの言葉 3章

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コヘレトの言葉 3章

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コヘレトの言葉 3章1節

神が与えられた「時」を思う

すべて空しいとしか思われなかった人生の一つ一つの「時」を、神が与えられた「時」として捉え直してみましょう。そのとき、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられ」たことに気付くことができるかもしれません(11節)。すべては「時宜にかなう」ものだという、神への大胆な同意によって、空しかったはずの人生の見え方が違ってきます。

今やコヘレトの口から肯定的な認識が語られ始めます。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である」(22節)。その根底にあるのは「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」という認識です(13節)。

すでに2章24節で予感されていた認識が、ここのところでいっそう強い確信になりました。それは「わたしは知った、すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」、そして「神は人間が神を畏れ敬うように定められたのだ」という高らかな確信です(14節)。

赤石 純也(伊丹教会)