イエスを主と告白できるのは | コリントの信徒への手紙一 12章

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コリントの信徒への手紙一 12章

…また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙一 12章3節

イエスを主と告白できるのは

12章を読むと、わたしはかつての罪深い自分の姿を想い起こします。悪霊に「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれ」ていたことを、です(2節)。しかし、悪霊の配下にあった罪深いわたしが悔い改めて「イエスは主である」と告白できたのは、ひとえに永遠の神であられる聖霊の働きによることでした(3節)。

特に十字架刑に処せられたイエスを主であると告白することは、聖霊によらなければ、誰もできないことです。古代ローマ世界では、十字架は、犯罪人に対する最も残酷な処刑法でした。今ではアクセサリーとして用いられることがありますが、当時は処刑の道具でした。

そのような十字架刑に処せられたイエスを主と告白できる。それは、イエスの十字架の死の真相、つまり、主イエスが私たちの罪の償いのための身代わりとして神から罰を受けてくださったことを何より聖書が教えてくれているからです。そして、うなじがとても硬く、聖書の真理に対して「アーメン」と肯くことのできない私たち罪人が、その真理を受け入れることができるのは、聖霊の働きが確かにあるからです(参照ヨハ16章13節)。人知をはるかに越える聖霊のくすしい働きに感謝します。

【祈り】

聖霊なる神よ、罪深く弱いわたしを主イエスのもとに導き続けてください。

長谷川 潤(四日市教会)